ジャック・デリダ『尖筆とエクリチュール』白井健三郎訳、朝日出版社、1979年

以前読んだ『他者の耳伝』と同じく、エクリチュール・女性・真理をめぐるデリダ独自のニーチェ論。デリダの女性(性)論はとても興味深い半面難解なので、誰かに解説してほしいとよく思うが、日本のデリダ研究者は男ばっかりだし、大文字のことにしか注目しやしない。でもエクリチュールと女性のことはデリダの核心に違いなく、だからきっとフランスやアメリカではスピヴァクカトリーヌ・マラブーのような偉大な解釈者が輩出しているのだと思う。
原題はEperons, つまり尖ったもの、尖筆、スタイル(文体)。それを避けるために必要とされるのが距離=女性。尖筆で書かれるのはエクリチュール=女性。
「真実において手なずけられなどしないものは――女性的である。このことを、女性性、女の女性、女のセックスによって、そしてまた独断的哲学者や不能の芸術家あるいは経験のない誘惑者という者のおろかさにとどまったままでいるときにまさしく人が思い込んでいるものであるような本質化的な他のさまざまな呪物によって、急いで解釈してはならない」63
「真理としての女性は懐疑主義であり、覆い隠す隠蔽であり、これこそ思考しうるものであらねばならないことであろう」66
「女性の距離は去勢との関係を宙吊りすることによって女性自身から真理を引き離す。[…]それは去勢との宙吊りされた関係であって、女性が信じていない去勢の真理との関係でも、去勢としての真理との関係でも、真理-去勢との関係でもない。真理-去勢とは、まさしく男性にかかわりのあることであり、けっして充分に年老いることも、充分に懐疑的であることもなく、隠蔽されることもない、そしてまた軽々しい信じやすさにおいて、その愚かしさにおいて真理-去勢のおとりを分泌することによってみずからを去勢するところの男性の活動的なかかわりのことである」69
「《女性》は――この語は記念すべき一時代を劃しているが――去勢のあからさまな裏面を、反-去勢をもはや信じてはいない。女性は去勢を信ずるにはあまりにも悪賢こすぎており、彼女は[…]そのような顚覆が実際には同一のものに帰着し、女性をいままで以上に確実に古い機械仕掛けのなかに、去勢の共謀者によって保護された男根ロゴス中心主義のなかに据え置いてしまうであろうことを知っている」70-72
「ところで《女性》は去勢の効力を必要としているのであって、その効力がなければ女性は誘惑することも欲望を起こさせることもできないであろうが――しかし明らかに彼女はそんなことを信じてはいない。そんなことを信じないでいながら、それをもて遊ぶものこそが、《女性》なのだ。それをもて遊ぶというのは、つまり、新しい概念を、もしくは笑うことを狙う信念の新しい構造をもて遊ぶことである。男性をもて遊んでいるのだ――彼女は、いかなる独断的なあるいは信じやすい哲学も凌駕しえなかったと思われる知をもって、去勢は生じない[場所をもたない]ことを知っているのである」72-73
「女にかんするもしくは真実にかんする自己の言説が女に関係することを信ずるのは《男》なのだ――私が去勢の決定不可能な輪郭にかんして素描しながらも、いつもと同じように、ついいましがたも巧みに避けられてしまった地形学的な問題とは、このような問題なのである。女は籠絡する。/女の真実を、女-真実を信じているのは、男である。/そして真実には、ニーチェが嘲笑を大いに浴びせている女性尊重主義者の女性たちとは、男性たちなのだ」86-87 ここでニーチェフェミニズム(尖筆=エクリチュールを喪失する)批判、懐妊という概念へのこだわりが紹介される。妊娠(者)を前にしての無責任な感情91、奇異である妊娠者92、男性の精神的妊娠者95
「理念は真理の自己現前の形式である。したがって真理はかならずしもつねに女性ではなかったのだ。女性はかならずしもつねに真理ではないのである。真理と女性とは一つの歴史をもち、一つの歴史を形成している」127
「そのとき[真理の現前としての、もしくは真理の上演としての理念が女性となることの時代]にこそ歴史がはじまり、もろもろの物語がはじまる。そのことにこそ、距離-女性が真理-哲学者を遠ざけ、そして理念をあたえる。遠ざかる理念は超越的となり、到達不可能なものとなり、誘惑的となり、遠く隔てたところから作用し、距離をへだてた道を指し示す。理念のヴェールは遠方でたゆたい、死の夢がはじまり、それが女性なのである」128-129
ニーチェが女性にみとめたあらゆる属性、あらゆる特徴、あらゆる魅力、誘惑的な距離、籠絡する到達不可能性、無限にヴェールに包まれた約束、欲望をかきたてる超越性、遠ざけ=遠ざかりは、一つの誤謬の歴史としての真理の歴史にまさしくぞくするものなのだ」129
「女性というもの、女性自体の真理自体というものは存在しない。そのことはすくなくとも、ニーチェが語ったことである。[…]教会の「女は教会において黙っていよ」と、ナポレオンの「女は政治において黙っていよ」につけ加えて、ニーチェは「真の女性の味方」として「女は女について黙っていよ」と言っている。/したがって、性的差異自体の、男のあるいは女自体の真理それ自体というものは存在しない。これに反して存在論全体はこの決定不可能性というものを前もって必要とし、隠匿しているが存在論全体はこの決定不可能性の検査の、その我有化の、その同一化の、それと同一であることの検証の結果なのである」147−148
「女性の問題が真なるものと真ならざるものとの決定可能な対立を宙吊りにし、この哲学的な決定可能性の体系に属するあらゆる概念にたいして引用符からなる判断中止[エポケー]の支配的制度[レジーム]をうちたて、テクストの真の意味を公準とする解釈学的企てを失格させ、読解を存在の意味あるいは存在の真理の地平から解放し、生産物の諸生産価値からあるいは現在の現前性から解放させる結果、解き放たれるものは何かといえば、エクリチュールの問題としての文体[スティル]の問題であり、あらゆる内容、あらゆる主題、あらゆる意味よりも強力な、拍車をつけてすすむ作用の問題である」157−158
「尖筆化された[鋭く尖らされた]エプロン[衝角、尖鉄、突出部、突起]はヴェールをつらぬき通すが、物そのものを見るため、あるいは物そのものを生みだすためにヴェールをたんに引き裂くばかりでなく、それ自体における対立、ヴェールで覆われたもの/ヴェールを取り除かれたものの、それ自体の上に折りたたまれた対立を解体し、生産としての真理を、現前性における生産物の開示作用/隠蔽作用を解体する。それはヴェールを降すこともしないと同様に、引き上げることもしなく、その宙吊り状態――エポケーの範囲を限定する」158
「女性なるものの、あるいは性的差異なるものの存在もしくは本質が存在しないのと同様に、es gibt Sein[それは存在を与える=贈る]におけるes gibt[それは与える=贈る]の、存在の贈与のおよび与えること=贈ることの本質というものは存在しない。この<と同様に>は、偶然の一致のものではない。或る一定の贈与(主体の、身体の、性およびその他似たようなものらの――したがって女性は私の主題ではなかったことになろう)としてのなんらかのものが、そこから把握され、また対立させられるというような存在の贈与は、存在しないのである」184 (以上、強調は原文では傍点)