学会めぐり

駿河台へ、三田へと渡り歩いた週末。
今日は「魔女シンポ」を聴きに行く。
家父長制と女性周辺の諸問題について、英文系の人たちがあまりにきれいに図式化する傾向なのは、やっぱりアングロサクソンの父権、家父長制というのが半端じゃなく本格的なものだからだろうか。
そういう意味では日本の家父長制なんてせいぜい19世紀からの借り物にすぎない。
だから全然なじんでなくて、外側の制度だけは都合よく活用しながらも、威張りつつ守る父(兄)とか威張りつつ責任を負う父とか、あんまりいない(稼いでくるかの問題ではない)。
「威張って甘える」はけっこう基本。
男女双方への抑圧の付加はイギリスとかより少ないかもしれない。
よく日本社会のジェンダーのことでも、あまり考えずに英米系の図式をあてはめる人が多いけど、ニュアンスがだいぶ違うと私は思うな。
というのが全体の感想だが、2000年以降バトラーがさかんに「親族関係」と言い出したことのはらむ危険(竹村和子)とか、「ゲド戦記」がミスタイトルで、これは戦記でもなければゲドという男性を主人公にした話でもなく、ゲドが自分のセクシュアリティを解体してゆく話(本橋哲也)だとか、男は孤独に死に女はネットワークのなかで死ぬ(小谷真理)とかのコメントが印象に残る。
ゲド戦記」、実は去年発表者の方から読むといいよと勧められたのだが、なんかしっくり来なくて途中でやめてしまったのだった。ちゃんと読まなきゃな。
小谷さんのコメントは自分で考えてたこととちょっとつながる。
看取られて死ぬことを無意識に確信している人とそうでない人、世界の見え方、働きかけ方が違うということ。

昨日は会場でなつかしい先生と再会し、小説談義。
小説のことは忘れるはずもなく自分の片隅で凍りついていたのだが、何だか久しぶりに激励され感動する。
まちがいなく、これが学会一番の収穫。
唯一評価してくれていた編集者は思いがけず異動してしまったし、読む仕事も今年は断ってしまったし、なんかもうそういう場所とのつながりは全部とぎれたという気がしていた。
書くうえで本質的なことではないと思いつつ、忸怩たるものがじくじくしていたんだけれど…。
フランス語がよく読めない頃は「原書は読み倒せ」と言い放ち、「ボツになってもボツになっても書き続けろ」と気合を入れてくれたのもこの先生。
彼の言葉とそのタイミングは、なぜだかとてもよく効くのである。