恵文社一乗寺店、京都シネマ

気になっていた書店、恵文社一乗寺店に行ってきた。
読書のための本コーナー、幻想文学コーナー、(人文系向き?)原発本コーナーなどなど、書棚づくりに個性が光る。
温かみのある木調の店内も落着き、週末で混んでなければ長居したくなる平屋の本屋。

非力の自分にはぎりぎりいっぱいの本をすでに持参していたので何も買えなかったが、奥のギャラリーでやっていた「きょうと冊子セッション」の出品冊子をいろいろ見て楽しんだ。
全国のこけしの家系(?)をひたすら家系図で示した冊子、詩人たちが偶然拾った言葉が日めくりカレンダーのようになっている冊子、冊子なのになぜかクジになっているもの、オーソドックスに映画雑誌、ひとり編集の漫画、昔の京都の写真を集めたもの……。
馬鹿馬鹿しいといえるものもあるが、やっぱり小冊子、ミニコミ雑誌ってどれも作っている人の楽しい気持ちが溢れて見えて、雑誌の原点なんだなーと思った。
それにデザインもかわいく、手の中に小さくおさまるサイズのものが多いのもいい。

ホテルの近所の京都シネマでちょうどブラジル映画祭をやっていたので夜ふらりと入り、アンドレ・クロッツァー監督『ジューサーの考察』を見る。
古いジューサー(家電の)が主婦と対話するというコメディ仕立てで、たまたま時間が合ったからゆっくりご飯を食べてゆっくり予習する代わりに見るかと思って見たという次第なのだが、これが実はとんでもないスプラッター・ホラーでげんなりした。
だいたいジューサーが考えたり観察したりする設定というのも、そんな安易な発想でいいのかという感じだ。
……と、たまにはそういう失敗もある。
アボカドと牛乳と砂糖を混ぜるジュースというのにはカルチャーショックを受けた。

スイカズラの匂い

鼻の奥にスイカズラの匂いを思い出そうとして思い出せずにいる。
少しだけ登場する藤の匂いの独特な甘さならなんとなく思い出すんだけれど。
スイカズラの匂いも思い出せない人間がフォークナーを語っていいんだろうか。
誰も怒らないだろうしバレないだろうが、私の倫理ではちょっといけない。

スイカズラはディープサウスではむしろ外来種で、日本など東アジアが原産。
漢方で使う金銀花と同じものである。
夏から最近までよく見かけるノウゼンカズラと名前は似ているけれど、あまり関係ないらしい。
ノウゼンカズラはいかにも熱帯めいてぽってりした橙色の花をつけながら、意外に匂いは少ない。
スイカズラと花のかたちがそっくりなのは虎の尾(サンセベリア)で、2、3年に一度狂ったように鈴なりの花をつけると、胸苦しくなるほど濃厚な甘い匂いを室内中に発している。
だいたいあんな感じか。
インターネットは何でも調べられるけど、匂いまで嗅ぐことはできない。

北海道から来た人がキンモクセイの匂いを知らないと言っていて驚いた。
岩手の人も見たことがなかったという。
北方には育たない樹木ということか。

ところで前のエントリーで「ピコのためのプカ」の「プカ」ってかわいい言葉だなあなどと関心して書いたものだが、自分がもともと知っていて日常的に使っている用語だと突然気づいた。
フラのフォーメーションでラインとラインの間の立ち位置に来るときプカっていうけど、そのプカとあのプカは同じですね。
空隙のことなわけですね。

『ペレ――ハワイの神話』(Saravah東京)

昨日は『ペレ――ハワイの神話』(テキスト:管啓次郎、音楽:Ayuo)を見に、聴きにゆく。
ハワイの自然と神話をテーマにした詩の朗読が、弦楽四重奏アイリッシュハープなどの一見かけ離れた楽器で奏でられる独特の音楽と結びあった、不思議なパフォーマンス。
そこにバレエやフラが混じり合った舞踊や歌まで加わってくる。
詩に聞き入ったし、音楽もよかった。
合わなそうなのに合っている面白い空間になっていたのは、そこに尽きるのかな?

「ピコのためのプカ」(チャント、エッセー)と、それとの連想で続く「光のへそ、島のへそ」がいい。
「ピコ」はへその緒で「プカ」はそれを埋める穴だそうだ(双子の名前につけたくなるような可愛い言葉だ)。
そんな穴が何万と並んでいる岩場があるのだそう。
行ってみたい。
(日本ではなんでへその緒埋めないのかな。子供の頃、桐の小箱に入った自分のへその緒、見せられたことがある)

それにしても、最初に行ったハワイがワイキキビーチではなくハワイ島だったのはつくづく幸せだった。
あの黒い、異世界のような風景に圧倒されなかったら再訪しようと思わなかったし、フラを始めようとも思わなかったろう。
旅の終わりに買ったのが、ハワイに自生する薬草の本(どこに旅行する時でも見つけたら買うようにしてるけど)とペレ神話の本。
あの旅の風景が立ちのぼるようなパフォーマンスでした。
仕事で煮詰まってたのがぱあっと明るくなれました。

最後の新規プロジェクト

大風呂敷というより大布団を広げるという表現がふさわしい世界文学講義に向け、目から焔を出しながら準備中。
やっぱりこういうのはガチでやらないとね。
今年の新規プロジェクトとしてはこれがいちおう最後で、これを乗り切れば今年は乗り切れるはずと思う。

演目はプルースト、フォークナー、ガルシア=マルケス、そしてポストコロニアル文学。
この脈絡のなさが、そのまま私自身のまとまらない文学傾向を示しているようにも思ったけれど、よくよく考えれば、記憶、時間、場所、物語って少しずつ関連しているではないか、ね。
小間切れの時間で読んで読んで再読し尽すのは大変だが、そうして減るもんじゃなし、というよりやはりこれは体験として増えるもんだろうと思うので、忘れても忘れても何度でも読む。
ポスコロ文学はセゼールとクッツェーを取り上げようと思っている。

これが終わったら、今度は新しいものをたくさん読むぞう。
そういえば他にもまだ新規プロジェクトを考えているのだった。

ダニー・ラフェリエール@日仏学院

昨日はダニー・ラフェリエールの講演会へ。
邦訳『帰還の謎』と『ハイチ震災日記』の同時刊行を記念しての来日(それともその逆だったか)。
書いたものとしては『震災日記』の原書、Tout bouge autour de moiを読んだことがあるのみですが、話はユーモアたっぷりで面白く、世界一低い声が印象深く、なんとも魅力的な人物でした。

「本は同じものをくり返し読むこと、そのことじたいがあなたの師となる。それに部屋が本でいっぱいにならずにすむ」
「世界をそのままにとらえる(受け入れる、あるいは眺めるだったか)のは好きだが、世界を自分の独善で理想化しようとする人は好きではない」

筆記用具を忘れたのでメモがとれなかったが、共感した言葉。
同じ本をくり返し読んでも一瞬後に記憶が流れ出て身につかないので、職業柄焦りまくっている今日この頃ではありますが。

毎年10月1週目の木曜日、日本時間午後8時は……

今年もドキドキ週間が終わる。
まあそんなことはまずないだろうと理性では思いつつ、こんなにフォーマルな待機のさせられ方だと「何かが起こってひょっとしたら」みたいな気にもなってしまうではないか。
たぶん同じような立場の人が全国に20人ぐらいいるのかもしれないけど。
ということで、この一週間私も予想屋みたいなことになっていたが、予想ははずれた。
それにしてもよくわからないのは、大マスコミの流儀というか仕組みというか……。

ルイ=ジョルジュ・タン氏講演

ルイ=ジョルジュ・タン氏のお話を聞きに行く。
少人数のこじんまりとした雰囲気の中、抽象的な理論というより、データを交えた具体的な話で面白かった。
CRAN(黒人組織代表議会)のスポークスマンであり、同性愛者解放運動の活動家であり、歴史学者でマルチニック出身。

2005年設立以来、CRANはこの30年間フランスでは発語を避けられてきた感のある「黒人」ということばをあえて表に出し、また人口における割合や職務質問される「黒人」の比率などの統計を出す、つまり「黒人」の存在を可視化する活動をおこなってきた。
すぐさま批判も出そうだが、外観のみで黒人・アラブ人は職質されがちという事実が明らかになり、その後、警察に職質の都度データを残すようにさせる動きにつながったなどの話を聞くと、じっさい具体的な成果はあるのだとわかる。

海外県出身者はアフリカ黒人に比べてマシという話を何度かされたので、出身地であるアンティユ社会の問題はどう捉えているのか、2009年のストも社会的・人種的問題だと思うが、CRANのメンバーとして介入はしているのかなどとうかがってみたが、「アンティユにもCRANの支部があって活動している」という答えぐらいしか得られなかった。
あまり個人的に思い入れはないご様子。
それよりフランス社会で最も弱い立場にあるところの黒人(確かにアフリカ黒人であることが多い)に寄り添い、じっさいにはかなりあるらしいアンティユ人とアフリカ人の亀裂を埋めようと尽力しているように感じられた。

メモも持たずに理路整然としゃべり続けていたのがすごい。
私などこの前の授業ノート、思いあまって原稿用紙100枚にもなってしまったというに。
みずから「黒人」といっているが、「タン」Tinという名字は中国系なのだと聞きびっくり。
ノラーの中国系の友達と同姓だってことだ。
それにしても、久しぶりに外国語ってものを聞いて新鮮だった(なんてドメスティックな生活)。