シモーヌ・シュヴァルツ=バルト「鍋の底から」(norah-m訳)

 料理とは文明の一種であるらしい。個人的にいえば、わたしは鍋の底から民衆の魂が立ちのぼってゆくようなこの考えがけっこう気に入っている。しかしわたしと料理のつき合い方はもっとつつましくて哲学などとは関係なく、正直ガストロノミーなどでもない。わたしがただ話したいのは、少々クレオール風味を利かせていえばグアドループで「マンジェ」と呼ばれるものについてなのだ。つまり、日常的な食事、誰であれ皆が食べる日々の食べ物のことであり、世界のよその場所と同じくわたしたちのところでも、尽きつめれば伝統的で素朴な食事にこそ料理のわざが極められ、溶け合っているのである。
 わたしの祖父の時代には、アンティユ風の生活様式がいまだ民衆のなかにあり、手つかずのままだった。祖父の一日は太陽とともに始まり、太陽とともに終わった。毎朝彼はフライパンでコーヒーを炒り、すると隣近所に開かれた扉や窓を通して、小さな小屋から大気の中をたえなる香りが広がってゆく。それはあたかも彼があるメッセージを運んでいるかのようだ。すなわち再び陽の光のもとに立つことの勝利を謳うかのような、生のメッセージ、肉体を取り戻したというメッセージ。彼の周りにも、同じもの、同じ歌があった。どの小屋からも、どの窓からも、音と香りの儀式めいたものが見出されるのだった。人々は自分のコーヒー沸かしがせっかちだと、あるいはのろまだとぶつぶついった。彼らは夜見た夢について話し、みんなにわかるように大声で驚くのだ。私の祖父のしていることは遠くからでもわかっただろう。なぜなら彼はあらゆる一語一語を区切ってこんなふうに話したからだ。「この粉はちょっと苦いな、明日は少しだけリベリア産を足そう」。あるいはこうもいう。「おやまあ、この山芋(カッサヴ)はずいぶんと固い。これは槌で割らなけりゃな」。十時の鐘が鳴ると庭でたっぷり働いた祖父は、いわゆる「ディディコ(おやつ)」に青いバナナを煮たもの、玉ねぎ添えの塩鱈、胡瓜のサラダをとる。二時頃には、昼食として塩漬け肉や魚、さらに川に豊富にいたザリガニを釣りあげてきてよく食べた。メニューは季節ごとに変わる。グアドループ中でパンの木が揺さぶられると、あらゆるソースを添えたパンの実料理が毎日出される。粗塩がけ、ミガン(マッシュ)、蟹のコロンボ(カレー)、ポタージュ、コロッケにフライ、ロースト、熟れたものに若いもの。パンの実の季節は豚の季節でもある。豚もまた木から落ちてきたこのマナのおかげで、目に見えて肥えてくるのだ。豚はつぶされ、塩をまぶされ、それぞれにブダンやアンドゥイエット、ハムに姿を変え、パンの実を変身させる材料となる。肉であれ魚であれ、祖父は自然の調味料しか加えなかった。すなわち青いレモン、唐辛子、にんにく、タイム、あさつき、時にはパセリをほんの気持ち、それだけだ。時代を先取りした健康ブイヨンだといっていい。夕方五時ぐらいになると、彼はスープか、あるいは単に地元産のお茶で胃の腑を満たす。ぐっすり眠るためには軽めでなくてはいけないから。当時それは広く知られたことだったのである。そして腹ごなしの、同時に時には瞑想のためのちょっとした散歩をするのだが、その道すがら、さきほどもいったように大きな声で、一日のできごとを自分自身に問いかけるのだ。
(つづく)

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シモーヌ・シュヴァルツ=バルト
1938年、フランス・シャラント・マリティム県のサント生まれ。3歳で両親の故郷であるグアドループに戻り、ポワン・タ・ピートル、パリ、ダカールで教育を受ける。
1967年、夫でゴンクール賞作家でもあるアンドレ・シュヴァルツ=バルト(1928-2006)との共著で初めての小説、『青いバナナ添えの豚肉料理』Un plat de porc aux bananes vertesを発表。1972年、アンティユの集落に生きる女たちの一族を描いた代表作『奇跡のテリュメに雨と風』Pluie et vent sur Télumée miracle(『Elle』誌読者賞グランプリ)を刊行する。
寡作ではあるが、クレオール語的な言い回しや表現がフランス語に溶け込んだテクストは評価が高く、他にクレオール民話のヒーローを取り上げ小説化した『水平線のティ・ジャン』Ti Jean, l’horizon(1979)、戯曲の『あなたのうるわしい船長』Ton beau capitaine(1987)がある。いずれも未訳。
「鍋の底から」"Du fond des casseroles"は1989年、Autrement誌に掲載された。