シモーヌ・シュヴァルツ=バルト「鍋の底から」(norah-m訳)2

 私の祖父はまったく凡庸な人物であり、彼の一日はグアドループの多くの善男善女と変わらぬものだった。マンジェの行為は、祖父にとっては、科学的なところなどみじんもない。それは自然からほんの少々借用するということで、彼はそのことを完全にわかっていた。たとえば、胡瓜、イニャム芋、マデイラ芋……収穫物がなんであれ、祖父にはその一部を後で通りかかった人々のために道端に残しておく習慣があった。このふるまいにはふたつの意味がある。自然にもともとその一部であったものを返してやるという意味、そして自分の収穫物からなる食事をあらかじめ人と分かち合うという意味だ。それこそがマンジェであり、自然と人間との交流(コミュニオン)というこの行為は、見かけこそ違え、現在も相変わらずよく見られるものである。同時に時々あることだが、ある人間とその人間の食にかんする嗜好には非常に深いつながりが見受けられる。たとえばもしあなたがマンゴーに目がないとしたら、あなたの臍の緒はマンゴーの木の根元に埋められていると囁かれるだろう。あるいはある食べ物――素朴なものでも珍しいものでもいい――が食べたくてたまらず、それに対する尋常ならざる愛着を表明でもしようものなら、人々は、あなた同様この食べ物に目がなかった先祖のひとりを見つけるまでおさまらず、こういうだろう。「誰それはやっぱり奴のじいさんの生まれ変わりだったんだ。道理でふたりの好みは同じなわけだ」。
 食べ物によって育まれるつながり、秘かな影響、目に見えない相互関係はかくも深く、妊娠した女にはそれらがたえずつきまとう。あるクレオールの単語がこれらにまつわる状態を完璧にいい表す。クレオール語では、肌の上の目立つ痣にはすべて「欲望」envieの名をあてる。そしてこれはまさしく未来の母親に今満たされていない欲望(アンヴィ)の表れであり、子供の肌に痣(アンヴィ)として反映されるのだと考えられている。非常によくいわれるのは、母親がいつの日か子供に次のようにいえるように、自分は昼も夜も目を光らせなにごとも見逃さないのが父親の重大な責務であるということだ。「この小さな痣は胡瓜を欲しがっている徴だよ。それからこの産毛は豚を欲しがっているの。あなたの父さんが豚を好きじゃなくって、だから母さんがあなたに一生の徴をつけることになったんだよ、坊や」
 ここで先ほどそれとなく伝えたことにもう一度戻り、強調したいと思う。クレオールの料理は何よりも分かち合いの料理だ。ひとりきりでのマンジェは罰だと考えられている。だから独身者でさえ、食事をひとり分だけ用意することは決してしない。誰かが来て、足を止め、食べてゆくのをつねに待ち望み、期待しているのである。曰く、ひとりでのマンジェは断じてマンジェなどではなく、人と一緒でなければ食べ物の本当の味はわからない。例を挙げよう、わたしの村にはひとりの途方もなくがっついた女がおり、扉を閉めきり自宅で食事をしていたのだが、誰かがいい匂いを嗅ぎつけ彼女のところへ来て分け前をねだるのを恐れるあまり、鍋の蓋さえ開けずにいた。ついに邪悪な精霊が、女の態度にかちんときて小屋に居座り、鍋の中身を残らずひっくり返してしまった。このためがっつき女は生涯干からびたパンを食べつづけることになったのである。この話が本当かどうか保証することはできないけれど、これがそれなりのやり方でよく伝えているのは、食事どきになるとどの小屋でも起きること、さまざまな匂いが混じり合い、食事が味わわれ、家族や友人、ご近所たちが出たり入ったりしということ、すなわち人が交わること(コミュニオン)であろう。
 見てきたとおり、クレオールの料理はきわめて日常的なレヴェルで、自然との、そして人々との交流(コミュニオン)の行為である。わたしたちの食品を扱う店が異郷の地で大繁盛しているのはおそらくそのためだ。なぜなら流浪の身においては、マンジェはマンジェでない。それは花々を、果実を、草を、山や海を思い出すことであり、いうなれば故郷を食べること、そして不在の世界をまるごと出現させること、自分が消え去り、存在をやめ、近頃ほとんど行政用語になってもいるがそれに倣えばアイデンティティをうしなうことがないように、表情を、笑いを、しぐさを、ことばを立ちのぼらせることなのである。
(終わり)