「名づけ」の精神史

しばしば「名前」について考えるけれど、そういえば2か月ぐらい前にも考えていて何かを読み、示唆を得たなとふと思い出す。
本棚を見れば思い出すだろうととっくり眺めていても、何も思い出さないし見つからない。
タイトルも作者も手がかりがない。
覚えているのは、
・伊東の保養所で読んでいた(鳥の声が心地よかった) ・日本人が書いた ・わりと小ぶりの本だった
これだけ。
それで家じゅう探したら、ほぼゴミと化した紙束入りの袋のなかからこぼれ落ちたのが市村弘正著『「名づけ」の精神史』(平凡社ライブラリー)。
読み終わった瞬間意識からとぶというのは私にはままあることで、また脳のメモリーからいつ消えるともしれないから、忘れないようさわりだけメモしておきます。

名づけるとは、物事を創造または生成させる行為であり、そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。[…]人間は名前によって、連続体としてある世界に切れ目を入れ対象を区切り、相互に分離することを通じて事物を生成させ、それぞれの名前を組織化することによって事象を了解する。このように「名づける」ことによって物事が生みだされるとすれば、世界はいわば名前の網目組織として現れることになるだろう。[…]たとえばそれが食物か毒物か薬物かを区分けされたとき、そこに成立する名前の体系は、人間とその物とのあいだに数限りなく繰り返されたであろう試験(試練)を含む交渉を背負っているのであり、それは「生きられる」空間が創造されたということであった。

「名づけ」は大きな意味では所有なのだと思うけれど、それを創造/生成と言い換えることもできる。

名づけがもつこのような経験の原初的形態は、子供において、その本来の遊びの能力のうちに見出すことができるだろう。社会的存在の「第一日目」ともいうべき子供が、世界を自らのものとするべく働きかけるとき、その所与性への正当な無視において、名前にもとづく創造の「奇蹟」的能力が発揮される。断片や破片を組み合わせ、自在に「変形」を加えて、一つの世界をつくり上げるのは子供の特技であるが、その小さな天地創造には名づけの能力が存分に駆使されるのである。

名づけ(造語)の、子供の遊び的な側面をもって、民俗学はこれを口承文芸のひとつと見なす。

このような子供の命名=変形の行為が示唆しているのは、物とは本来多様にして変化にみちた相貌をもつものであり、名前の付けかえが可能なのは、その交渉の中で物がその事態に特有の相貌を現わすからであった。すなわち、名前の変更とは物それ自体の変貌を意味する。[…]遊戯的交渉における子供の働きかけとは、その子供に対して世界が生き生きとした固有の姿を現すということであった。

「変身物語」(ルビ:メタモルフォーズ)は古代の人間の得意とするところであったが、それは対象を変貌せしめる名前の力に対する強い信念によって支えられていた。子供の変形能力と神話的思考の持主たちの変身感覚とは、固有名詞の決定的な機能と威力とに対する信念において共通していた。

名前のもたらす変身感覚は、他者の存在に対する侵犯を含む。名前による生成と変形の力が信じられ、名は同時に実体を表わすものであるとすれば、他者の名前の改悪や毀損さらに剥奪は、存在それ自体に対する賤しめや処罰そのものと考えられることになる。

このあたりは普通にポストコロニアル的というか、トドロフの論などともつながる。

「綽名」は、このような侮辱とさらには愛着と賞讃とを含む、他者への変形作用を担う名前であった。綽名は、名づけが本来あだやおろそかに行われるわけにはいかないことを端的に示している。それは対象への周到な観察と的確な表現、つまりは批評力を要請するのである。

綽名の批評力。

見えないもの、それゆえに神秘化されるとともに恐怖や不安をよびおこすものを、「見える」ものとすることによって恐怖心を沈静し消去すること、それが名前の重要なはたらきの一つであった。

アフリカの呪術師とか。フーコーの『狂気の歴史』みたいなのもそうかな。逆に畏怖の念が名づけを遠ざけることもある。

社会の命名体系にとって固有名はそのままでは異物であり、通り名や職名やさらには綽名や偽名が名前の社会的な流通形態となることによって、体系は維持され、同時に固有名も保護されたと考えられるのである。この限りで固有名は、命名体系の更新におけるその範疇間の移行の辺境に位置することになる。そして辺境にはしばしば禁忌が宿る。「古来の習慣」として実名が「忌み名」として秘匿され、またそこに魂(言霊)が付着すると考えられたことは、このカテゴリカルな位置においても理解することができよう。

特に異性との出会いの局面において実名を隠すとか明かすとか、求婚時の名のりとか、今はあまり深入りしないけれど、「相互の固有名に働きかけ、呼びかける(「呼ばひ」)ことによって、「社会」は形成された」というところは興味深い。固有名は辺境なんだというのも。

所与の名前は、物との生きた関係を阻むものとして立ち現われていた。そこで、物がただの物となり果てている状態に対して、それが「変貌」しうる世界へと再創造するべく、「隠喩」の力が切実なものとして求められるのである。物に対する子供の態度、自在に名前を付けかえるその基本的な能力が要請されている。

生きた関係をもたない名(=屑)からは歴史が脱落する。そういう所与の名に新たな名を付けかえるとき、いったんすべては忘却される。
そして無名性については、また別の機会に。