個人の名前

自分の名(固有名)にはことごとく縛られるという話(後輩と)。
固有名は所有と切り離しがたく結びついたものだから、姓にかんしていえば単純に家父長制とかいうレベルで「ムカつく」思いもあるけれど、よく考えれば夫婦別姓にしろ、ファーストネームのほうにしろ、そうした所有の問題から無縁になれるというわけではない。
名前の話というのは面白くて、ある部族がよそ者には名前を教えないとか、シェークスピアの『嵐』でミランダの名前が明かされるか明かされないかとか、だからどうなのだと考えると、やはり広い意味での所有の問題に行き着くのだろう。
それはそうとして、自分が与えられた名前には、意味だけでなく音や漢字やなにかも含め、やはり磁力のようなものがあって、それによって自分が規定されたり影響を受けるところがある。
まあ誰もがそうだというわけではないだろうけど。
単純なところでは同じ名前の写真家やダンサーは気にかかるし、訪ねた土地のあちこちに自分の名前が―ひらがなやローマ字で―記されていたり、他人の口から発音されているのを耳にしたりすればそれなりに反応もする。
人によっては名の意味に引きずられ、結局その名の表すとおりの人格となってゆくということもあるかもしれない。
私は「名乗り」とか「名づけ」とかいうことが本質的に苦手なので、e.e.cummingsにならって全部小文字のノラーでありたいと思うが、それでもやはり自分の固有名に愛着はあるようだ。

まったく別のレベルで、個人名について。
この日記を誰が書いているかなんて同定するのは簡単なことだし、そうしてくれてかまわないが、逆方向、つまり私の名前から探って個人的な文章であるここに行き着かれるのはいやだと思う。
だからここに名前を記すことはしない(匿名であることでモラル上の制約が出てくるにしても)。
仕事その他の経験上、個人情報や個人名では何度か不快な思いをしてきたため。
こちらが署名した文章を行間まで読み込み探っている誰かがいるという事態には、骨まで凍る恐怖を感じた。
こういう暗さ(たぶん生来の)を乗り越えるまっとうさと賢さをどう身につけていけるかが課題。