土曜日のル・クレジオ講演に備え、以前からつまみ読みしていた最新刊、『歌の祭り』(岩波書店、2005年)を読む。
全部通して読む予定だったが、古代インディオの書『ミチョアカン報告』について書かれた章はどうしても読み通せなかった。すべて私のフォークロアに対する拒否反応ゆえである。
先住民の生(生殖と死)と暮らし(家族と共同体)のシンプルさにこそすべてがあるとするのがル・クレジオの世界観だが、私は乗れない。そこには自分の居場所はなく、排除される他ないから。シンプルさとは、すなわち例外のなさでもある。

名付けることにより人間は、山々を、河川を、泉を、森林を、無から引き出し、将来、町や寺院を建立するための土台を発見する。突如として人間と神々の出会いの時を創出しつつ、こうして大地を所有することが、歴史の真の源泉なのだ。

私はこういう文章をポジティヴに受け止められない人間だ。

神話の力は、必ずしも、不条理の中にあるのではない。それどころか、神話は論理に、言語とイメージの建築に、特定の時間・空間概念に、根ざしている。

これは、ル・クレジオとは文脈が違うけれど、まったく同感である。
ルルフォの『ペドロ・パラモ』について論じた箇所は面白い。

記憶は、手でふれることのできない煙として命が立ち上ってくる、地下世界のそれにほかならない。

無条件に好きなのは自然の描写。「メキシコ、三つの礼讃」、そしてとりわけ「鳥の人々」の章は何度も読みたい。やはり師匠の翻訳はうまい。

豪雨は西で雨の樹木となって突然に炸裂し、その樹の根元は山の谷間にしっかりと根づいて、その水の指を長い根のように張っている。灰黒色の雲は葉叢のように美しく巨大で、落ちてくる水は音のない滝のように不透明な流れとなって、大地を天にむすびつけている。

その樹にむかって、鳥の人々がやってくる。夕方五時、太陽が火山に近づき、空の光が変わる。目に見えない透明なヴェールが生まれ、軽い幕が太陽の熱を止める。宙吊りにされた、不動の時間。事物や人々は停まってしまったようで、熱の波は立ちつくし、多くの身ぶりや動作がバランスをとって立ちつくし、まるでいまにも後ろむきに倒れそうになっている。

私のメキシコのイメージは、つやつやした葉の樹木に籠もって喧しいくらいにざわめく鳥たち、それに突然の雨と雨に濡れた地面だ。だから「鳥の人々」の章はいとおしい。

樹は巨大で、道ばたにたったひとりで立っている。葉叢に姿を隠しながら、何千羽という鳥が話し、体をゆらし争いあってから、眠りにつく。空気は透明で、東の空は少しずつ暗くなり、最初の星が夜の青の中の輝く一点となって出現するのさえ見える。ここでは酔いは大きい。鳥の人々が住む、あの樹のせいだ。さまざまな声や身ぶりの酔い、そしてまた消えさることのない何か、世界の歩みを一瞬止めた翼ある大いなるつむじ風の記憶をとどめる何かの酔いだ。


この本は装丁もすばらしい(佐藤篤司)。日本の書物のきれいさは、往々にして写真や絵のデザイン的な処理のそれであることが多いけれど、この本は表紙、中表紙、目次と移ってゆく配色、幾何学模様、質感が美しい。