工藤庸子『プルーストからコレットへ』中公新書

20世紀の文豪プルーストレズビアンの風俗作家コレットは、実は同時代人で面識もあり、同じ世界を共有して生きていた。その結節点とは…?
第一章 出会い 『シェリ』のレアと『失われた時』のオデットは同じ裏社交界のココット。輪郭のあいまいなオデットに比べてレアにははっきり美学があるという差はあれど、どちらも19世紀の女流作家がなぞろうとしたロマン派的に美化された女性像とは一線を画す。レアは商品化された女だが、自らもまた相手の「男を対等に商品化する」。
同じドゥミ・モンドを描くにあたり、裕福な社交人プルーストと踊り子コレットの視線は対照をなす。「彼女は、観察すべき対象として、「他者」として、この世界の女たちを眺めていたのではない。コレットの視線は、明らかに、プルーストの視線が到達しようとする地点から発し、逆の方向に注がれている」49
第二章 男と女 作品における男の同性愛と女の同性愛を論じた章。プルーストにおいては性が政治に代替されているという著者の説は、ある意味、この章の結論ともいえるだろう。ジルベルト(ココットとブルジョワの娘で、レズビアンでもあった)とサン=ルー(貴族でありホモセクシャル)の結婚はその意味で重大な意味をもつ。「性の問題が、世界の変貌をもたらす可能性はかほどに大きいのだということを、プルーストの作品は示唆しているようにも思われる。それはたとえば、ドレフュス事件や世界大戦のような政治事件になぞられることができるほど、強力な隠然たる力で、人間を、いや人類を、つきうごかしているのかもしれない。さらに一歩進んで考えるなら、政治を直接に語ることをしないプルーストの作品世界では、性が政治にかわるものとして、そのメタファーとしての役割をはたしているのだともいえそうだ」137-138
この考えにはわたしはあまり説得されていない。政治とはここでは階級社会の瓦解を指し、そこに個々人の性愛が大きく関与しているということだろうけれど。一方、非政治的なサロンを描きながらも、それもまた政治の「下部構造」にくみこまれており、そのように見ればプルーストは政治をも書いているのだと著者は考えているようである。78 それはいいとして、「政治」という用語の使い方に場合によってブレがあり、混同されているような気がする。 
第三章 世紀末から1920年代へ 世紀末と20年代の差は、20年代と現代より大きいかもしれない。アカシアの道をしゃなりと歩くオデットとスポーツ娘アルベルチーヌとはあまりに隔たりがある。オデットが欲望の目で鑑賞される着飾った美であるとすれば、アルベルチーヌやコレットの人物たちは肉体の優美さ、人体そのものの美といえるだろう。
その一方、戦争から戻ったシェリが時代のなかで自分の居場所をなくしてしまったという感覚、いわば自分の「終焉」を見てしまった感覚も、プルーストの「私」の感覚に重なるものだといえる。166