ガヤトリ・スピヴァク『ある学問の死』(再)、マリーズ・コンデ『ヘレマコノン』(再)

声が出ず、昨日はたった十数人の学生を前にして、事務で借りたマイクを使ってしまった。授業用にマイ・マイクが欲しい。講義はまだいいけれど、語学の授業というのは声も含めて体を使わなくてはならないのできつい(そうしないと学生はついてこない)。ここ二学期ほど、面白がってフランス語の物真似をする元気者が何人かいるから助かるけど。通勤途中の東京駅や横浜駅の地下コンコースでは、マスクをしてても地獄のように咳が出る。
今日はゼミでスピヴァクの発表をしたので、咳が出ないようフスコデとムコダインを飲んでおく。去痰剤のムコダインはいいが、抗ヒスタミンの咳止め・フスコデは強い。咳は止まるが、全身がいやな感じにぼうっとしてしまう。これに含まれるメチルエフェドリンは日本人が漢方で使う麻黄から抽出したものだそうだ。私は以前、自己流の漢方調合で麻黄を使い、夜中に突然心臓がバクバクして飛び上がった苦い経験がある。
ゼミには外国人留学生や社会科学専門の人もいたので、切れ切れの声でスピヴァクの晦渋な比較文学論の解説を聞かされるのはさぞかしわけわかんなかっただろう。すみません。
あらゆる言語は混血的/雑種的であらざるをえず、それによって作られたテキストはみずからの言語的特徴を守りつつも、国民的同一性には耐えられないという逆説があるからこそ翻訳への要求が発生するというスピヴァクの考えには頷ける。そしてアリストテレスがいうような言語と言語の交換ではなく、身体と倫理的記号作用との往復運動としての翻訳の必要性という考え方は、他者に対する立ち位置を考えるうえで私などはとても共感できる。
「境界を横断する」と題された第一章で、周辺同士の文化浸透の困難の例として挙げられているのがマリーズ・コンデの『ヘレマコノン』。フランス語圏のカリブ海出身の女性が自らのルーツを見出すためフランスから西アフリカに渡るが、文化的にも政治的にも違和感と幻滅を思い知らされるという話である。その中からスピヴァクは現地の「サバルタン女性」による発話(私がこの箇所を何度か読んだかぎり、発話者は女性とは特定できない)「マンディンゴ語も、プール語も、トゥクロール語も、セレール語も、ウォロフ語も、トマ語も、[以下延々続く]生み出さない土地なのに、やっぱりそこにも黒人が住んでるなんて変なところだねえ!」を取り上げ、リチャード・フィルコックスの英訳と比較、フランス語で「プール語」とされた箇所が「フラニ語」となっている事実に、それぞれの部族を示す呼称を規定した19世紀フランス帝国主義とイギリス帝国主義の差異を見る。
翻訳の過程にも歴史が横たわっていることを読み取るこのような緻密な研究態度(比較文学と地域研究が協働したもの)は、アメリカ合衆国の政治と不可分となっているカルチュラル・スタディーズなんかには到底できるものではないというのがスピヴァクの主張だ。とにかくスピヴァク比較文学と地域研究に対立するものとして、カルチュラル・スタディーズの大国権力志向、一方通行、研究レベル(特に対象言語の習得)の粗雑さを叩きまくる。
ここで『エレマコノン』とくり返し表記されているのはフランス語の本だからだろうが、Heremakhononはマリンケ語なのだから(「幸福を待つ」という意味)私は日本語では「ヘレマコノン」と書いたほうがいいと思うけどな。アルジェリアの「ハルキ」のことを「アルキ」とかいうのも、何かスカしてるように感じる。杉野英実さんがやっているパティスリ「イデミ・スギノ」っていうのもどうなんでしょう(京橋のフィルムセンターの裏にあって、すごく美味しい店ですけどね)。
http://d.hatena.ne.jp/norah-m/20040812
http://d.hatena.ne.jp/norah-m/20050213
http://d.hatena.ne.jp/norah-m/20050214