スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』を再読。

ティーヒンドゥー教徒寡婦殉死)について書かれた部分を読むと、直前に読んだ高橋哲哉靖国問題』の内容と妙にダブってくる。天子様に捧げた息子を戦地で亡くし、靖国神社に祀ってもらうのは悲しむことではなく、喜ぶべきことという考え方と、サティーのもつ引力が「報奨」というイデオロギー的な備給を受けていたこと。
靖国に祀られているのは日本国のために戦った「英霊」であり、それは「顕彰」されるものであって、遺族が「追悼」すべきものではない、本来遺族の意思は関係がない、というのが靖国神社側の見解であるらしい。後からA級戦犯を合祀しておいて変な理屈だと思うのだが、英霊たちはひとつの座布団の上に全員が座っていて、それを後から一部だけ分離するのは無理だというのだ。いずれにしてもそこに個々人の戦死者はなく、したがって彼ら一人ひとりへの追悼の気持ちは問題にならない。
ひるがえってサティーのことを考えると、「それはあたかもあるひとりの主体のうちにあってのみずからの自己同一性が実質のないものであって、たんに現象的なものでしかないことについての認識がドラマ化されて、死んだ夫がその消滅させられてしまった主体の外面化された実例および場所となり、寡婦のほうは『それを実演する』(非)行為者に転化したかのようである」。
ティーを懲罰と考える見方に対し、スピヴァクはこれを「殉教の行為であって死んだ夫は超越的な一者〔神〕の代理をつとめていると読まれるか、それとも、それは戦いであって死んだ夫は君主や国家の代理をつとめていると読まれ」るべきであり、「これらのもののためにこそ、自己犠牲という陶酔させるようなイデオロギーは動員されうる」と考えている。
そしてまた、サティーという目に見える暴力を前面に押し出すことによって隠蔽されてしまう問題もある。それは「性別化された主体の構成」というより広い問題である。「(性的に)サバルタンの地位に置かれた主体を形成したうえで覆い隠すという課題は、太古的な起源の時点においての制度的テクスチュアリティーのなかに呑みこまれて見えなくされてしまっているのだ」。
隠蔽と無意識は深く、その意識化をうながすのは容易ではない。私はその意味でフロイトに対しても懐疑的なのだが、スピヴァクが気持ちのいいことを言っている。
フロイトのような人物のおこなっている女性のイデオロギー的犠牲化の企てと、調査研究する主体としてのポストコロニアルの知識人が占めている位置のありようとのあいだには、類似するものが存在する」「フロイトが女性たちをスケープゴートとして使用しているのは、深く両義的なことにも、ヒステリー患者に声をあたえ、彼女をヒステリーの主体に変えたいという、当初の、そしてその後も持続する願望にたいする、ひとつの反動形成なのであった」。