なのにあなたは京都へ行くの

仕事のため、猛暑の京都で週末を過ごす。
関東生まれの関東育ちなのに、なぜこうも関西との縁が深いのだろう。
自分の人生、公的にも私的にも、つねに関西文化に巻き込まれてきた気がする。
そして最近の巻き込まれ度は特にひどい。
関西人が好んでする東京対関西の対決話に普通東京人は関心をもたないし、あるいは「関西(人)って面白いよね」などと軽々しく鷹揚な物言いをするが、巻き込まれている者としてはとてもそんなふうには思えない。

どこまでも間接的で形式主義
目指すはつねに洗練なんだとよく思う。
洗練が嫌いというより、育ちの悪いnorahは洗練というものが肌に合わない。
大阪人が自慢にする「ボケとつっこみ」文化にしろ、「笑い」の観点ばかりが強調されるが、あれこそ言葉の形式主義ではないか。
一方私は「ボケとつっこみ」的会話のみで場が終わった後、いつもどうにも虚しくもの足りない気持ちになってしまう。
やっぱり「俺が思うに文学の使命とはさー」とか「人生でできることってさー」とか馬鹿みたいに直接的に真剣に話すほうが断然楽しい。

とはいえnorah自身が関西風だという節もあり、時々関西人から「関西人っぽい」とたぶん先方としては褒め言葉のコメントをもらう。
伝統とは無縁のような東京郊外核家族のnorah家だったが、そこにもやはり親のルーツの京都文化が残余としてあったのだろうか。
言葉というか語彙としては多少あったかもしれない。

歩いたばかりで記憶が鮮明なところで、あの町のどの辺で生まれたのかと親に聞くと、「んー、京都のどっか」というあまりにクレオール的な答えであった。
ルーツの追求はともかく、もう少し自分の原点にかんする知的好奇心というものはないのだろうかと呆れてさまざまな角度から質問すると、本籍地を暗記していたことを急に思い出したという。

京都市上京区紫野郷ノ上町17番地

グーグル地図で探してみると、現在の北区に同じ町名がある。
北区は1955年に旧上京区の一部が分離してできたそうだ。
すぐ隣が金閣寺という場所である。
ふーん、時間があったら今度ちょこっと行ってみるかと思う。

表題の歌はチェリッシュ(古い)。