阿部和重、種なしから雌蕊へ

待ち望んだ梅雨の晴れ間のように自分だけの時間がひょこっと訪れた時、何をするか?
私は仕事上の下心なく純粋に読みたい本を寝転んで読みたい(時には手芸がしたいことも)。
ということで、阿部和重の『ピストルズ』660ページをようやっと読んだ。
数年前、夢中になって読んだ『シンセミア』と同じく神町サーガに属する大作。
集中講義の直前、最後の200ページを一気に読み終えるも、実は途中、予想外に読みにくかった。
細切れの時間を使ったせいか、それとも、植物をもちいた魔術をものする菖蒲家の娘あおばの(奇妙に?)女じみた語りの技巧ゆえか。
神町若木山のご神体を守る一族という設定とはいえ、植物、ヒーリング、麻薬、超自然的な力というモチーフ、さらにそれらをとりまとめる女性的なものはこの大きな物語の中で必然があり、かつ機能しているのだろうか。
(いや、「暴力の対抗物」という企図のレベルでは、たぶん機能しているのだろうが)
「書かれてはならない小説が書かれてしまった」という蓮實先生の褒め言葉(帯)の「書かれてはならな」さはどの辺なのか。
ジェンダーをめぐる作者の果敢なチャレンジを軽々に退けたくはないけれど。

もしやこちらが日本の現代小説を読めない体質になっているのかとの疑問もわき、試しに7年ぶりぐらいに『シンセミア』を読み返してみると、やっぱりこれがあまりに面白くて、時間を忘れて全部読んでしまいそうになる。

それでも『ピストルズ』(=雌蕊)にも継続された、この一貫した方法意識はすごい。
(『グランド・フィナーレ』のあの連作短編が、実はすべて神町の物語に内包されていたなんて)。
後藤明生を受け継ぐセンス(世界の見方・感じ方)と徹底した形式主義、そしてそのあまりの、バランスを欠いた硬い文体に愛着を感じてきたが、阿部和重は後藤とはだいぶ異なる道行きを歩んでいる。
神町サーガの世界はこの先、いったいどんなふうに巨大化してゆくのだろうか。