凡庸なマクシム・デュ・カンとチューボー並みのフロベール1

二年ほど前に邦訳が出ていたことをこれまで知らないでいたギュスターヴ・フローベールブルターニュ紀行――野を越え、浜を越え』を読む。
1847年5月から3カ月、フロベールとマクシム・デュ・カンは、リュックを背負ってトゥーレーヌ、そしてブルターニュ周遊の旅に出かける。
その細かな行程をそれぞれが分担して記述し、12章の原稿にまとめたものを筆耕に清書させたのがそもそもで、ふたりの生前に日の目を見ることはなかった。

2009年9月に訪れた紀元前の巨石群が残る町カルナックについて書かれた第五章。
私の知るかぎりブルトン語など理解する人がほとんどいなかった同じ場所を訪ねたフロベールはこう書いている。

そういうわけで、フランス語を話さず、室内をこんなふうに飾ってはいても、ここの人びともやはり生活しているのだ。われわれの土地におけると寸分違わず、眠り、飲み、愛の営みをし、そして死んでゆくのだ。こうして存在するものもまた人間に違いないのである。だが、何とまあ、ここの人びとは、美術展(ルビ:サロン)どころか産業博覧会にさえほとんど関心を抱こうとしないことか。

たった160年前、この辺の人々は「フランス」からは別世界、別「人種」だったというわけだ。
他にも、たまたまフランス語が聞こえてきて話の内容がわかったとか、まるで外国に出かけたように言葉に不自由する旅行だったことがわかる。
フランスの中央集権、均質化、同化の歴史はなんとも浅い。
せいぜい各地域から兵士が集められた第一次大戦あたりまで、あるいは公教育が普及した19世紀末までしか遡れないのだろう。

カルナックの見ものである数キロにわたり草原に並ぶ花崗岩の列は、今では緩いながらも柵で囲われ、人々はその外を歩くことになるのだが、フロベールの頃にはそんな柵はなく自由に触れられたらしいことが次の記述からわかる。

これらのいわゆる揺れる石は、われわれが無邪気にも何度も蹴りを食らわしたにもかかわらず、微動だにしなかった。

蹴りを食らわす? なぜそんなことをしたかったのか、ギュスターヴとマクシム? 君らはもう中学生ではなかったはずだが。

しかし同時に、さすがに25,6になっていたフロベールはこれらの動かぬ巨石を見渡しながら、これらがかつてドルイド尼僧の姿を見ていたことに思いを馳せる。
私はさらに、自分も間近に接したあの石たちが無邪気に歩きまわるフロベールとデュ・カンを見ていたことにうっと来る。

カルナックの先は、もうびっくりするほど幅の細い半島(二車線の車道の両側は海、というか早朝と夕方で陸と海に分かれるトンボロみたいなすごく魅力的な地理)が何キロか続いていて突端がキブロンという小さな町。
そこがフランス革命時の大量殺戮の地であることを記述によって知り、少なからぬショックを受ける。