アリスは、落ちながら。捨てられないもの

いざという時、これだけは残しておきたいというようなモノは何もなく、モノなんかなるべく持たないですっきり生きたほうが生産的と思いはするものの、生きている年数だけチマチマしたいろいろが溜まってしまい、捨てるには捨てるがいつも思いきり悪く、五月雨式である。
そんなだから、安原顕編集時代の「マリ・クレール」(1991年)など出てきて捨てようとしながら、掲載されていた柴田元幸訳、スティーヴン・ミルハウザーの短編「アリスは、落ちながら」をつい読みだしてしまう。
穴の中を永遠に、ゆっくりと落下しつづけるアリス。
通過してゆく食器棚のラズベリージャムも、紅茶箱の手描きの花も、レモンクッキーも細部まで丹念に描写し、見逃すことがない。

あんまり長いこと落ちつづけているせいで、アリスは何だかよくわからなくなってきた。つまり、もし落下がいずれ終わるとすれば、この垂直のトンネルはふたつの場所をつなぐ中継地点、リンクであり、上の世界と未知の下の世界を結ぶ架け橋である。そして、それ自体では重要でないものとして、落下が終わった瞬間に消滅してしまうだろう。けれど、もしも落下が永久に終わらないとしたら、すべては変わってくる。落下それ自体が冒険となり、いま自分が落ちつつあるトンネルこそが、魔法と神秘をたたえた未知の世界になるのだ。

落下とは眠りの正反対、つまり覚醒。

それで話が戻れば、長らく保存していたアンティークのワンピースとオーガンジーの帽子についにうっすらとカビが生えてしまい、これが潮時と石内都に倣って写真におさめ、ようやく捨てることにした。
ワンピースは本物の学生時代、友達とイタリア貧乏旅行をした時、ミラノの蚤の市で見つけ、ほぼ唯一の自分用お土産としたもの。
3000円はしなかったと思う。
ベルベットとサテンの異素材ミックスとグリーンの濃淡が可愛く、20代の頃は黒のタートルを組み合わせ、ジャンパースカート風に着ていた。
エストがとても細いので、20代を過ぎると入らなくなったが、可愛くって捨てられなかったのだ。
帽子のほうは、帽子デザイナーを目指して修行していた友人が材料費だけで作ってくれたもの。
いくつか作品を見せてもらって才能があるように思ったが、デザイナーにはならず、でも今も帽子には関わりをもった仕事をしている。