『日本語が亡びるとき』

今朝の朝日新聞で以下の記事を読む:
「日本語亡ぼさぬために/近代文学読み継ごう/水村美苗さん、新刊で訴え」
店頭で見かけたら買おうと思いつつまだ見かけておらず、したがって本を読んだわけではないまま記事を読んだ感想だけをいうのだが、なんとなく…疑問。
世界で流通する英語が唯一の「普遍語」として君臨する一方、他の言語は亡びつつある(冒頭リード)。
確かに。
「普遍語」の英語が「学問の言葉」として確立した「学問の世界」では、英語の論文でなければ読んでさえもらえない。つまり、世界の「叡智を求める人」たちにとって、日本語は「読まれるべき言葉」の仲間に入っていない。
確かに。
では文学の言葉としての日本語はどうか、といって歴史が振り返られ、世界の多くが無文字社会だった時期に漢字が伝わり、漢文を翻訳して仮名が生まれ、西洋の言葉が翻訳されて「国語」が生まれ、「植民地化されなかったおかげで、日本は二重言語社会にもならずにすんだ」と地の文はいう。
以下、水村さん談。

この国語が日本近代文学を可能にした。学問が母語で書かれたとき、文学も最盛期を迎える。漱石や鷗外のように学問の世界にも行けた才能が文学の世界に来た。

日本の近代文学が達した「高み」を水村氏は「奇跡」と呼ぶが、今や叡智をもとめる人々は英語へと流れてゆく。
そうして日本語が亡びてしまうことへの危惧から、ふたつの提言、すなわち英語教育と国語教育にかんする提言がなされる。

日本で皆がバイリンガルを目指す必要はない。世界に向かって英語で意味のある発言ができる、一部の優れたバイリンガルを育てることが現実的です。

問題意識として共有できる部分はもちろんあるのだが、どうも記事から、アカデミズム優位、知識人優位の選民的な意識が強烈に感じられてしまうのは気のせいだろうか。
そして「高み」とか「奇跡」とか「愛する日本語」とか「僥倖」とかの言葉づかいに漂う日本語のみの特権化。
それは英語だけでなく多言語が共棲しうる世界という考えとはまた違っているようだ。
これは編集側の方向性だろうか、作家の意図だろうか、私のうがった読み方だろうか…
本を読んでいないので何ともいえないんだけれど。
うーん、うーん、うーん、うーん。