マリー・ンディアイの不可解さ

来日中のフランス語作家、マリー・ンディアイの話を聞く(於早稲田)。
最新刊『心ふさがれて』から、何箇所かの朗読。
文章はとてもよく、特に語り手に敵対的に迫ってくるボルドーの町の長い描写など大変好きだ。
読み通す時間がないのは承知の上で先日2冊買い求め、数ページだけ読んだときの印象も端正ながら不可思議でとてもよかった。
きちんと読んだら、きっと好きな作家になるだろう。

フランス生まれの作家だが、NDiayeという姓からわかる通り、アフリカ系(セネガル)の父親をもつ。
そうした出自は、作家の顔立ち、肌の色によりひと目で見分けられるものである。
だが、生い立ちや移民・郊外問題と作品との関連を問われると、作家はとたんに頑なになる。
社会学的な問題意識をベースに文学作品を書いているわけではないのだから、苛立つのも無理からぬことだろう。
「そのような質問はあなたを苛立たせるのか、それともうれしいのか」という単刀直入な問いを投げかけられたンディアイは、「かつては苛立ち、いちいち釈明していた。最近は釈明をするのをやめ、質問に対して無関心でいられる」と答えていた。
相当に強い表現だと思う。
だけど、小説を部分的に読んだだけでも、敵対的な町としてのボルドー、名指されていないがマルセイユトゥーロンに近い生まれ故郷、母のうたっていた歌の歌詞に出てくるbalafon……とこれだけだって人物の出自や抱えている問題として当然連想するものはあるわけだ。
長編全部を読む時間はないから、さっき短編「クロード・フランソワの死」というのを読んでみた。
すごく面白い。
でも、どうにもこれだって、「郊外」が単に背景ではなく、中心テーマとなる話である。
やろうと思えば、登場人物の嵌めている青い目のカラーコンタクトに着目して、ファノンを参照してのポスコロ的読解だって可能なくらいだ。
それでも「郊外」や「移民」など関係ないと言い張る、不可解なまでの頑なさ。
「部分的には関わるかもしれないけれど、もっと複雑な要素で成り立って」いて「普遍的といっていい」。universelなんて表現しれっと使われると、意地張っているように感じてしまうのは穿ちすぎか。


いや、文学だから、頑なでいいんだけど。
作品の外で、何も説明しなくてもいいんだけど。
それでもやっぱりアンバランスなほど頑なだという印象があり、それがかえって顕わにしてしまうものもある気がする。
深く魅力的なテキストと抱き合わせの頑なさということか。
ともあれ、謎のある作家って素敵だ。