聖火リレーに寄せて

長野で北京五輪に向けての聖火リレー
政治問題絡みでここまで不穏なオリンピックは1980年のモスクワ大会以来ではないかと思うが、どうもコメントの歯切れが悪くなってしまうのは、自分が35年におよぶオリンピック・ウォッチャー(というかオタク)だから。
今身を置いている人文系インテリの世界では、オリンピックなど日の丸、君が代同様、ナショナリズムと一体化した「悪」そのもので、開催じたいが馬鹿という位置づけである。
まあ、ナショナリズムと結託しているという事実は、否定のしようもない。
しかし私にとっては、オリンピックとはそこで行われる個別の競技であり、国籍の異なるそれぞれの選手であり、各競技における全試合のうち、選手の最大の力が発揮されることが期待される一番の大会である。
一流のアスリートは、国内の大会や通常の世界選手権ではなくオリンピックに照準を合わせ、そこが力のピークとなるよう鍛錬を積むものであり、だからその力の炸裂が見られるオリンピックの観戦は最高に楽しい。
そのように具体的以外の何ものでもない胸躍る体験に対し、個別の競技など見たこともなければそのすごさに対する感受性ももち合わせない、具体を欠いたイデオロギーそのもので「オリンピックは悪」などといわれると、正直ムッとする。
国を挙げての欠場で、アスリートとして最大の機会を逸した瀬古や山下の無念に無関心ではいられない(その年はたまたま東大受験がなかったどころの不運ではない)。
だがそのように具体的な競技を見せてくれるアスリートたち自身、一流であればあるほど国家の勝利という意識が強く、たとえば星野仙一北島康介のように「日の丸をセンターポールに掲げたい」などときっぱり口にしているのも事実だ。
「平和の祭典」などときれいごとをいっても、やっぱりナショナリズムそのものなのだ。
しかも今回の中国・北京、あまりにひどい。
ウォッチャーとしては悩ましい(何かの立場を明確にすると、別の何かに加担しそうだからそれもいいたくないし)。

しかし幼少時から大好きだったオリンピック。
個人的には、外国への興味の手がかりだった気がするな。
国や外国選手の名前をノートに記録するのがすごく楽しかった。