中上健次と淀川長治

人と話していたら、中上健次の小説はDV的な暴力が出てくるところが好きではないといわれてハッとする。
他のサーガ系作家たちと比べ、中上というのは断然両性具有的なエクリチュールをもつ人で、だから偉いというのが長年の私の見解で、暴力のことなどあまり気になっていなかったからだ。
というか、境界横断的だったり、いろいろな方向の資質を併せもつなかでときに現れてくる暴力性という位置づけといえばいいのか。
でももっと考えたほうがいいのかな。
最近、読み返していないからな。

それに比べて私がどうにも気になって我慢できないのが、書き手の被っている文化的なものや制度的なものによるバイアスがそれと意識されないままエクリチュールに反映され、それがあたかも普遍的なことを語っているかのように提示され、受け取られてしまうこと。
それに対する違和感の提出が「それはそれでいいのだ」という居直りとともにネグられてしまい、その部分がネグられたままに議論が進行してしまうこと。
こういうことをエクリチュールの性差といっていいのか、エクリチュールの政治性といえばいいのか、いい方としてはどちらもよくないかもしれないけど、そういう微妙なバイアスの所在に意識的であろうとしないのは、文学にかかわる者として怠慢だと思う。

自分の読書人生で、ひとりの女性(男性)作家からも影響をうけたことがないとしたら、ちょっと自らの足元を疑ってみたほうがいいんじゃないだろうか。

生前の淀川長治先生、最後の講演(於:慶応藤沢キャンパス)をテレビでやっていた。
生きているうちに接する機会をもてたことが本当に貴重に思える人物のひとりである。
淀川さんの全存在が好き。
遺した言葉がいくつか紹介された。
「他人歓迎」(同感)
「わたしはかつて嫌いな人に出会ったことがない」
なるほど淀川さんらしいなあ。
でもこういう箴言めいたものより、彼が映画や舞台を語りつづけた具体的な言葉の全部がすばらしかったと思う(トラックバック参照)。
観察のこまやかな描写をする傍ら、わがままっぽい泣き言や意地悪をいうところが亡くなった祖母によく似ていた。