クリストファー・ノーラン『メメント』(2000米)

野暮用をいくつか片づけ、すっきり気分で『メメント』を観る。
話題になっていた頃、熱心に感想を話す友人の話の内容に触発され、『メメント●●●●[漢字四字で人名が入る]』という映画のシナリオを考えた。
あまりの健忘症ぶりに呆然とさせられていた身近なある人を主人公として、その人が自分のことは何もかも忘れ、口からは親しんでいた思想家の言葉がそのまま飛び出すようになり、すばらしい社会的地位も失い、砂漠を歩く放浪者となる話。
そこまで考えたのに、本家『メメント』を観るのは初めてだ。

ガイ・ピアース演じる主人公レナードは、妻のレイプ殺害をきっかけに脳を損傷し、10分程度しか記憶を留めておけない。
出会った人、帰るべきモーテル、生きるために覚えておくべきあらゆる事象をポラロイドに撮り、メモを書きまくる。
レナードの脳が捉える世界をなぞるがごとく、映像はクロノロジーに沿って進行せず、ばらばらな断片としての情景だけが提供される。
同じ情景がほんの少しの過去や未来につながって反復され、おぼろげながら展開が見えてくる。
だが誰も彼もが自分の病気を利用し騙しているのではと疑わずにいられない、終始不穏なこの緊張感…

妻を殺した犯人への復讐のため、決して忘れるわけにはいかない情報(と復讐をするというその意志自体)をびっしりと刺青した裸体は、耳なし芳一ばりにすごい。

こういう症状は稀らしいが、記憶を失ってゆく人なら身近に何人か見た。
忘れたことを指摘すると、たいていむっとしそんなはずないと怒りながら否定するのだ。
とはいえ忘れて焦るというよりは、忘れても反省せず、結局忘れるにまかせるという態度が驚きだった。
自分なら、焦って追いつめられ、強迫神経症的にあらゆることをメモしまくると思う。
身の周りのことも過去の記憶も、もう全部。

直接関係ないけれど、過去のことを語る人と語らない人がいることに最近気づいた。
昔の自慢話であれ、歴史に属するような事柄であれ。
そういう人は現在に生きているのかといえば、必ずしもそうでないような気もする。
これについてはちょっと考えたい。