語学やり直し中

私はある時期、後藤明生を愛読していたが、後藤を偏愛してしまう大きな理由として、どの小説にもどのエッセイにも、異常なほど同じことばかりが書いてあるということが挙げられる(しかも小説もエッセイもまったく同じ文体)。
くり返し書かれている「同じこと」のひとつに、入院時、点滴を吊るすガラガラを引きずりながら大量喫煙する姿の描写がある。
あまりのひどさに、読むたび大笑いした(その後、後藤明生は肺がんで亡くなったんだけど)。
いや、もしかしたら同じ『メメント・モリ』に一度きり書かれていることを何度も読んで大笑いしたのだったかも。
しかし改めて確認したが、「文芸」としては楽しめる同じ行為を身近な人間にやられると何と心底ぐったりすることよ。
入院・手術に備えて唯一自分でしたことが、カートンで煙草を買うというのもな(しかもこの患者、肺気腫でもある)。

いろいろ待ち時間などあるので、一瞬でする読書に著者の方からいただいた『語学はやり直せる!』。
いわれなくてもやり直し続けだし、語学がローリスク、ローリターンであることは身に浸みてわかっているけど。
私の語学力はいわずと知れている低さで、多少なりとも自分にとっての実りといえるのは、日本語の他にフランス語と英語の小説も読めることぐらいだ。
しかし、この方だけでなく、身の周りには複数言語の達人がごろごろといる環境なので、その爪の垢の煎じ薬の蒸気ぐらいは吸っている気がする。
ははあ、こうやれば何ヶ国語も高度に習熟できるわけね、というのは見ていてわかる。
もちろん留学や帰国子女体験は関係ない。
尽きない面白がりに尽きる(尽きなくて尽きるのだ)。
私のスペイン語学習がいつまで経ってもはかどらないので、そんなのは歩く途中にアイポッドでやればいいんだよとある達人にいわれた。
しかしそういう時間は妄想の時間なのだ。
というと、そうだよね、norahさんはねーと納得されてしまったが。

先日友人に、うちの娘(音大志望)はフランス語の筋がいいといわれたんだけれど、続けるのがいいと思うか?とアドバイスを求められる。
いいたいこと、聞きたいことの意味がわかりかねる。
ある外国語について「筋がいい」などということはいえない、ある外国語に興味があるか、その興味によって続けられるかしかないと思うと答える。
(お気に召さない答えだったかもね)
何語であれ、日本語以外の言語を知ることは別の思考回路を知ることなのだから、そういう意味で外国語をやって損はないとも付け加える。
いいながら、まったく理解されていないなと悲しくなる。
やはり自ら外国語と格闘したことのない人、特にお母さん方が外国語を語るとき、それは役に立つかどうかであり、子供時代にやらせるものであり、女子に向いているものであり、上記の本の著者が嘆くような薄っぺらな先入観に満ち満ちたものとなるようだ。