ゴーンとシクスー

鍼灸院では実習の人がぞろぞろといて、こんな姿でもうハリの筵だ!ととっさに内心の声が出る。
でもこういう場合本来は、まな板の鯉だ!というべきではないだろうか。
私が鍼の筵を敷いているのでなく、私の体が鍼を刺された筵なのではないか、むしろ。
筵をまとった身体ではなく、筵としての身体。

朝日新聞カルロス・ゴーンが、上司は部下の女性の服装についてコメントしてはいけないといっていた。
容姿についてでもなく、体をも同時に含意する「その服、似合っているね」でもないのに、服装そのもののコメントもだめなのか…
それは鷲田清一先生的に、衣服もまたその人の外皮だという考えか。
ディスプロポーションとしての身体を変形したいと願うディスプロポーションとしての情念を指摘してしまうのがいけないということなのだろうか。

衣服といえば、折りしも一瞬でする読書として、エレーヌ・シクスーの「フィシュとカルソン」という愉快な文章を読む。
間違ってステテコ姿で講義をしているデリダというイメージ(シクスーの夢)は、何でこんなにおかしいんだろう。
他人には見せてはいけない姿(服装)で気づかず人前に出てしまう夢の系譜って自分にもあるよな。
その場合、その姿は自分ひとりきりのときなら十分ありうるものなのだ。
カルソンというのも(フィガロジャポンなどでカタカナ表記されるときこそモード色いっぱいだけれど)、短ければトランクスだし、長ければ中規模スーパーの2階で売ってる楊柳地の白のあれでしょう。
「フィシュ」のように彩りゆたかな言葉ではないながら、この言葉(「三角ショール」の意味もある)に「カルソン」という単純でやや滑稽な別の布製品で応じているのが面白い。