マノエル・ド・オリヴェイラ『夜顔』(2006)『わが幼少時代のポルト』(2001)

1992年に日比谷シャンテシネで『アブラハム渓谷』を観て、その甘美さに圧倒されて以来、マノエル・デ・オリヴェイラ監督作品は、公開されるたびに足を運んでは期待が外れてがっかりするということのくり返しだったのだ。
それが、ああ、16年目にしてようやく、やっぱり私は間違っていなかったと思える作品に出会えるなんて。

夜顔』の原題はBelle toujours。
いわば「とこしえの美女」ですね。
つかの間の、Belle de nuit(夜顔)ではなく、ルイス・ブニュエル監督『昼顔』Belle de jourと音を引っかけた言葉遊びだったんだ。
これは『昼顔』のセヴリーヌとそのお相手との35年後の再会である。
60をも超えているかと思われるふたり。
豪華なしつらえのホテルのレストランで、身なりはすばらしいのに、老人らしい、絶え間ないゼイ音、料理の咀嚼やウイスキーの嚥下の音など、やけに生々しい音声が響いている。
ミシェル・ピコリなど15年ぶりぐらいに見たが、いやらしく、しつこい感じの老人ぶりがうまい。
マゾヒストの女と、その秘密を知る男の再会というストーリー自体はどうでもいいものだけれど、蝋燭の明かりに浮かぶ、向き合った男女のシルエットとか、蝋燭が消えかかり、順を追って消えていく様子とかを見ながら、老いるってことは、過去に知っていた人との再会の可能性をもつっていうことでもあるんだななどと思った。
もちろん時間を経てお互いが違う人間に変わり、その再会が幻滅に終わることは大いにあるとはいえ。
セヴリーヌが顔をしかめるあのプレゼントの中身は何か、という誰でも思う問いに対して、オリヴェイラ監督は「秘密だ」といっていた。
だが、蓋を開けたときに鳴る、あの奇妙な蝿の羽音のような音、あれはドアの前で小首をかしげる雄鶏と同じく、ブニュエルへのオマージュに他ならないだろう。
良識ある観客の顰蹙を買うようなドタドタした展開もブニュエル
飛び出したセヴリーヌが忘れていった小型のバッグから勝手にお金を出し、ウエイターたちにチップとして配ってしまうのもおかしいが、その後ウエイターたちが口々にQuel drole de type(ヘンな人)と何度もくり返しているのが何ともおかしい。

ところでセヴリーヌといえば、『昼顔』ではもちろんカトリーヌ・ドヌーヴだった、ビュル・オジェではなく。
ドヌーヴはこの映画への出演を断ったのだという。
セヴリーヌ役がビュル・オジェなのは全然構わないとはいえ、ふたりの女優は歳の取り方がまったく違うとしみじみ感じる。
歳とともにどんどん容貌を変えてゆくドヌーヴと、若い頃と同じまま微妙にしおれてゆくオジェ。
ドヌーヴなど、『昼顔』の頃と今とで背中の面積が3倍ぐらい違うのではないか。
一方オジェといえば、ダニエル・シュミットの『カンヌ映画通り』で、シロウトなのに映画が好きで好きで記者たちの中に紛れ込んでしまう、若くてかわいい女の子のイメージだったけど、今でもそれがそのままかわいいおばさんになったという雰囲気だ。

長くなったけど、勢いで『夜顔』以上にすばらしい『わが幼少時代のポルト』についても。
要するにこれは、当時90歳を過ぎた(今年はもう100歳だけれど!)オリヴェイラが、自伝としてポルトで過ごしたみずからの幼少期を映画にしたもの。
20年代から50年代ぐらいまでの映像、映画、写真や歌、過去を演技で再現した部分、現在のポルトの光景などが交じり合い、作品をなす。
そこから感じられるのは、単なる感傷的なノスタルジーではない。
上流家庭に育ちながら、物乞いとして街に立ったり、泥棒になったり、石工の息子として職人の道を選ぶことを夢想するマノエル少年の想像力は愛すべきものだし、20年代から30年代にかけて彼も参加した、作家や芸術家の集まりからは当時の活気が伝わってきた。
たくさんの固有名詞が出てきたが、ポルトガルの芸術家事情に詳しくないのでわからず残念。
せいぜい知っているのは(前の時代の話として映像で出てきた)ペソアぐらいだった。
特に、オリヴェイラと一番仲がよく、体制に睨まれてブラジルに移住したというカザーレス・モンテイロという詩人が印象に残る(国外のサイトなども調べてみたけどわからなった)。
彼の「ヨーロッパ」という詩を、オリヴェイラがナレーションとして読み続けるのだ。
それは古きよきヨーロッパを懐かしむなどというものではなく、枯れ果てたヨーロッパ、他の土地の搾取に成り立つヨーロッパの現在に絶望しながらなお愛するという激しいものだった。

そしてすばらしいのがやはり景色。これはまさに今現在のもの。
ポルトガルらしい急勾配の古い街や家々もだけれど、意外にも荒々しい海と、その上にかかる高架の鉄橋。
橋桁の巨大な半円が空を切り取って、その向こうに銀ねず色に光る雲が無数に浮かんでいる。
他にも、町の塔に素手で登る人の古いニュース映像とか、監督思い出の場所の跡地で働く、現在の作業員の人々の姿(有色人が多い)とか、最初と最後に挿入される女声の歌(マリア・イザベル・デ・オリヴェイラ)とか、記憶にとどめたい細部がたくさん。
古いものと新しいもの、現実とフィクション、たくさんの断片で織り上がった映画なのだ。
最近、少し長く狭い場所で動かずにいると、全身の血が滞ってしまうようで、腕も脚もしびれて痛かったのだけれど、それすら途中から忘れて見入ってしまった。
アブラハム渓谷』のレオノール・シルヴェイラにも再会できる(からかわれる相手のマノエル青年は『夜顔』のバーテンダーである)。