アブサロム、アブサロム!

再び熱でへたっている間に、29日になってゲラがどさっと。
しばらくないことだったので、世にそういう作業が存在することを忘れていた。
今月後半になり、熱のせいで5日ぐらいロスしてしまい、ピンチ。
持ち直している間は寸暇を惜しんで活動しなければならないのに、フジテレビに真剣なクレームを書き送ったり(返事ください)、鶏を焼いたりしている場合ではなかった。
布団に入りながら、再びフォークナー、そして「フォークナーとハイチ」論。
宿題としての読書だけど、もともとの年末の予定とは違うけど、全身の疼痛で神経が剥き出された感じで読むのには結構ぴったりだ。

アブサロム、アブサロム!』でトマス・サトペンが1820年頃ハイチへ渡り、フランス人プランターのもと仕事をしたことになっているのは、史実との矛盾をきたす。
イスパニオラ島のフランス植民地サン・ドマングの黒人奴隷たちが蜂起し、ナポレオン軍を破って独立したのは1804年。
それに先立つフランス大革命時からフランス人植民者はどんどん島外へ流出していたし、デサリーヌがハイチ建国を宣言した後には、聖職者など一部例外を除く白人が大量虐殺されている。
その混乱が収まらず、また大規模プランテーションが解体されていった1820年代、フランス人植民者が島で黒人奴隷を使っているなどありえないのだ。
小説の想像力の世界では、そんなアナクロニスムさえ許されてしまうとしても、「ハイチ」という名の問題は気にかかる。
「ハイチ」というのはタイノ・アラワク族の言葉で「山がちの土地」「高いところにある土地」を意味し、フランスが植民地に与えた名「サン・ドマング」と一線を画す、独立の象徴ともいうべき名なのである。
「ハイチ」という名まで含めた黒人独立国家の脅威と緊張感を、フォークナーが合衆国南部のサトペン家の世界に(またその来歴に深く関わってくるニューオーリンズとの交流の場としても)必須のものとして導入したのだとしたら、それはますますすごいことかもしれないけれど。
(ちなみに日本語の漢字表記では「海地」。これだと意味が逆だと思う。私としては何となく「high地」というイメージである。「high血」でもあるかもしれない)

ああ、回顧をしている間もなく今年が暮れてゆく。
フォークナーの文章って圧倒的だ(以下、高橋正雄氏の翻訳を使ってしまいますが…)。

もっともそういう場所では、金を得るためには高い死亡率がつきもので、金の輝きは黄金の光ではなくて血の光であり――そこは神によって造られたが、おじいさんによれば、暴力と不正と流血とすべての悪魔的な人間の強欲と残忍さがあばれまわる舞台として、神に破門された人非人や破滅を宣告された連中が最後に捨てばちの怒りを爆発させる舞台として、特別に取っておかれた場所であり――ほほ笑みながらも凶暴性を秘めて、信じられないほど真青な海の中に造られた孤島で、それはわれわれが未開のジャングルと呼ぶものと文明と呼ぶものの中間点であり、黒い血と黒い体と思考と記憶と希望と欲望が暴力によって略奪されてきた謎の暗黒大陸と、その黒い体が運ばれて来たよく知られた冷たい土地とのあいだの、つまり、あまりにもお粗末になったのでこれ以上見るに耐えなくなった自分たちの思考と欲望を追い出して、それを住む家もなければ希望もない空漠とした海上に投げ出した文明世界とその住人たちのあいだの中間点であり――その風土に耐えるためには一万年もの赤道の遺産を必要とするような緯度にある、忘れられた小島であり、二百年にわたる圧迫と搾取によって流された黒い血で肥され、信じられないほど矛盾した話だが、やがてそこから平和な青葉と真赤な花と、若木ぐらいのふとさで人間の三倍もの丈があり、もちろんそれよりいくらかかさばっているが一ポンド当りの価値は銀鉱石とほとんど変わらない砂糖黍が生えるようになった土地であり、それはあたかも、たとえ人間がやらなくとも、自然が帳じりが合うように帳簿をつけ、引き裂かれた手足や踏みにじられた心のつぐないをしてでもいるようであり、自然と人間が植えつけたものが、単に空しく流された血によって感慨されているだけでなく、呪われた船にはどうにもそれを逃れることができず、帆の最後の切れはしがそれに飛ばされて青い海中に沈み、女や子供の最後の空しい絶望的な叫びもそれに吹き飛ばされて行く風によって元気づけられても来たのであり――人間の植え付けたものもまた同じで、骨も脳味噌も元のままで、人間たちが踏みつけた大地の中に消えてしまった昔の血がその骨と脳味噌の中で眠ることなく今なお復讐を叫びつづけていたのさ。ところで彼は平和そうに馬を乗りまわしてその土地を監督し、その間に言葉を覚え(言葉というものは、おじいさんによれば、人間どもの秘密で孤独な生活のうわべや片隅や縁などを、それがふたたび暗黒の中に沈んで行く前のほんの一瞬、時おり結びつけてくれる貧弱で切れやすい糸だそうで、暗黒の中に帰って行ったら、霊魂が最初の叫びをあげた時聞こえなかったのと同様に、最後の叫びをあげても聞こえないそうだが)、だが彼は自分が馬を乗りまわしている土地が火山であることを知らず、夜になると太鼓や歌声で大気が震えたり鼓動を打ったりするのを聞きながらも、自分の聞いているのが大地の心臓の鼓動だということを知らず、(おじいさんによれば)彼は大地は親切でやさしいものだと、そして暗黒は単に自分たちに見えるものに、それともその中ではなにも見えないものに過ぎないと信じており、監督の仕事をしながら、なにを監督しているのかわからず、その日になるまで武装した砦から毎日見まわりに出掛けたのだ。