ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

51年9ヶ月と4日、女を待ち続けた男は、再び彼女との関係を紡ぎ直す。
時間がないのに読みやめられず、それでも何度も中断させられ、最後の数十ページは苦痛なほどの愉楽。
ガルシア=マルケスの他のどの作品より私は好きだし、いろいろな意味で自分のためにあるような小説だと思う。
こういうのはもう他では読みたくない。
冒頭、苦いアーモンドの匂いにつつまれながら、フランス語圏アンティーユ出身の男が自殺体で見つかるところからして象徴的。
フェルミーナ・ダーサの夫、フベナル・ウルビーノ博士はフランスで医学を修め、コレラの研究で成果を挙げたというから、私の頭のなかでは、同時代人としてフローベール勝海舟がパリで出会うといった山田風太郎風の妄想が広がり、ウルビーノ博士はきっとパリでマルセルのお父さんで19世紀のコレラ学の権威、アドリアンプルーストと知り合いだったんだという気になっていたら、本当にプルースト博士の弟子だったと書いてあって驚くとともに、親しみの気持ちでいっぱいになる。
舞台は南米コロンビア。
まったく未知の土地ながら、私の読書人生を結び合わせるような世界がそこにある。
といっても、その場所で大河がどんなふうに流れていて、町はどんな感じで、カリブ海とどういう位置関係にあるのかさえよくわからない。
それだけによけい想像が広がる。
川沿いの砂洲にいるマナティー、猿、ワニといった動物たちや、流れてくるたくさんの水死体。通過してゆく内戦中の村。
コレラ患者発生のしるしである黄色い旗を掲げ、老いた恋人たちを乗せた船は進んでゆく。
コレラは町を襲う現実の病であるとともに、恋人を蝕む病の隠喩でもある。
恋するあまりクチナシやバラの花を食べ続け、下痢が止まらず、緑色の嘔吐をくり返すフロレンティーノ・アリーサ。
色恋がかっこいいなど表面的で、本当の恋愛はこのくらい格好悪いものではないだろうか?
フロレンティーノはハゲるし、入れ歯になるし、老いた二人のキスには老いの臭気が漂っている。
それを醜いなどと思うのは洟垂れ小僧の感覚だ。
しかし双方、つくづく残酷な人間だな。
フェルミーナ・ダーサが最初の求愛を受けるとき、「無理やりナスを食べさせないのでしたら、あなたと結婚します」というセリフもいい(フェルミーナはナスが嫌い)。
フロレンティーノ・アリーサが仕事で何度事務的な文書を書いてもラブレターになってしまうのもいい。
フロレンティーノが恋文を渡そうとするとき、フェルミーナの刺繍の上に鳥の糞が落ちるのもいい。
ウルビーノ博士がマンゴーの木の上に逃げたオウムをつかまえ、「Ca y est!」といった後、バタっと落ちて死ぬのもいい。
飲み物を飲んで、「窓の味がする」と難癖をつけるのもいい(そして女中たちも飲んでみて「ほんとに窓の味だ」と納得する)。
フロレンティーノの愛人のひとりが、絶頂に達する前に必ずおしゃぶりを咥えるのもおかしい。
フロレンティーノの上司の一物がバラのつぼみの形をしていて、女性たちに人気があるのもおかしいし、この地域の男たちがヘルニアで巨大化した陰嚢を誇りとしているというのも馬鹿みたいでおかしい。
アスパラガスを食べた後の尿がいい匂いなんて初めて聞いた。
アメリカ・ビクーニャというのは、少女の名というより動物の種類みたい。
椿の花びらに細かく文字が書かれたラブレターというのは、本当にうっとりする。
……そんなことを考えている折り、若い友人がバランキーリャ出身の物理学者と同居していると書いてきた。
しかもアルゼンチンからのメール。
何だか夢と現実がつながってしまったようで、睡眠中の夢にも出てくる。
そういえば数日前まで、タイトルは『コレラ時代の愛』だと思い込んでいた。