シュザンヌ・セゼールとは誰か

Suzanne Césaire(née, Suzanne Roussy 1915-1966)
マルティニック生まれ。1930年代にパリ留学。
友人ミレイユ・セゼールの兄エメと出会い、1937年に結婚。
1939年、夫エメとともにパリからマルティニックへ帰還(エメは第一詩集『帰郷ノート』を発表)。乗船直後に第二次大戦が勃発。
エメ、ルネ・メニルらと刊行したTropiques誌に批評(時に詩のような形式をとる)を発表(1941-1945)。雑誌はアンドレ・ブルトンに見出され、評価される。
戦後、エメと離別。以後、その動静はほとんど知れない。1955年に戯曲を執筆するが未刊行。66年、死去。

いくつかの重要な作品を残しながら、シュザンヌに関する情報は極端に少ない。某氏によれば、別れた夫エメ・セゼールが生きているかぎり出てこないだろうとのこと。娘の口承文芸研究家イナ・セゼールなどに水を向けても、決して亡母のことを語らないという。
シュザンヌは消された作家である。

確認できた作品は以下の通り:
1.Léo Frobenius et le problème des civilisations (1941)
2.Alain et l’esthétique (1941)
3.André Breton, poète (1941)
4.Misère d’une poésie : John Antoine-Nau (1942)
5.Malaise d’une civilization (1942)
6.1943 : Le Surréalisme et nous (1943)
7.Le Grand camouflage (1945)

1,2,3ではそれぞれ、ドイツの民族誌家レオ・フロベニウス、高校の哲学教師で「アラン」の呼び名で知られたエミール・シャルチエ、シュルレアリスト作家アンドレ・ブルトンへの共感を語り、特にフロベニウスの「アフリカ文明論」とブルトンの「シュルレアリスム」については、これらをマルティニックの文脈でとらえ、新たに自らの思想として生かそうとした。
4は末尾の一節が印象に残る。「ハイビスカス、フランジパニエ、ブーゲンビリアなんて糞くらえ!/マルティニックの詩は人喰いである、さもなければ存在しない」
5のキーワードは「植物人」homme planteとしてのマルティニック人。同化批判、ネグリチュード的アフリカ回帰(懐古)に懐疑的な発言が見られる。
6は文字通り、「私たち」マルティニック人の生きる術としてのシュルレアリスム再考。
7:マルティニックと他のカリブの島々(ハイチなど)との連帯、ネグリチュードへの疑問、混血の肯定が詩的な文体でつづられる。

シュザンヌの思想は所詮エメの受け売りにすぎないという向きもあるが、テクストを読めば、それらの言説は先入観に他ならないことは誰にでもわかる。エメ・セゼールはシュザンヌが重要視していたシュルレアリスムに対して一定の距離を置いていた。またシュザンヌが最後のエッセイで称揚する混血的なあり方は、30年代の『黒人学生』編集時以来、エメが一貫して否定しているものである。一方、シュザンヌの文章には、エメが先導していたネグリチュードのアフリカ回帰という思想に対し、留保をつける発言がしばしば見られる。

その作品は長らく黙殺されており、1978年、『トロピック』誌のリプリント版が出た後も状況は変わらなかった。例外的にマリーズ・コンデがPoésie antillaise(Fernand Nathan,1977)でほぼ初めてシュザンヌの慧眼を評価し、またダニエル・マクシマンDaniel Maximinがフランス語圏カリブ海近現代史をたどる小説、Isolé soleil(Seuil,1981)前書きにおいて彼女から受けた多大な影響を吐露しつつ、作中では登場人物のひとりにその両義的側面を語らせてもいる。 
ここ20年、シュザンヌに積極的関心を示しているのは、欧米のシュルレアリスト女性作家研究の分野、もしくはポストコロニアルカリブ海文学研究の分野だが、後者においては、ヨーロッパ中心の民族誌学やシュルレアリスムへの信奉が批判の対象とされることもある。
近年は、80年代のクレオール理論に30年以上も先立って、カリブ海の島々との連帯と混血文化に積極的意味を見出した批評「大いなるカムフラージュ」が一部で高く評価されている。

謎に包まれた作家について、数少ない証言が残る。
「ティ・ポンシュの炎のように美しかった」(アンドレ・ブルトン
「5人の子どもの母親にしては、いささか戦闘的すぎる」(ミシェル・レリス)
立派な方々のわりには、まったくロクなことを言わない…

注:「ティ・ポンシュ」は白ラムにライムを搾ってキビ砂糖を入れたもの。美味しい。