ジュディス・バトラー『触発する言葉』岩波書店、2004年

言語による発話、特に「憎悪発話」に存する行為遂行性(performativity)と、その背後にある権力の問題をめぐって。
キーワードは、発話と行為遂行性、行為体(agency)と主体・従属(subject)、名称・蔑称(name)と慣習、予めの排除(foreclosure)。
名づける、呼びかける、名づけきれないなど「名前」(時にname、つまり蔑称でもある)をめぐる新たなアプローチ(norahにとっては)。
同じ議論を考察したJ.L.オースティンは、発話行為に主体が先行している点に、主体より発話が先行すると考えたアルチュセールの「呼びかけ」理論は、呼びかける声を絶対的・一方的な神の声としている点に、バトラーは異を唱えている。

「実際わたしたちが呼びかけられ、ある場所に置かれ、ある場所を与えられるときの手段が、沈黙、つまり名指されないことによる場合もある」43
「主体は名指し、かつ名指される位置にいる」48
「名づけられていることに気づかぬまま、名づけられているという状況がある。この状況は、わたしたちすべてが最初に置かれている状況、ときには最初のさらにまえにある状況ですらある。わたしたちは名称によって社会的に構築されるが、この社会構築は、わたしたちが気づかないうちにおこなわれている」49

憎悪発話の具体例として、ミネソタ州の黒人家庭の前で十字の旗を焼いた白人の若者の行為(憎悪発話)が挑発的言辞か思想の自由かをめぐり司法で争われた経緯(第1章)、黒人女性アニタヒルが上司から受けたセクシュアルハラスメント訴訟のさなか、ポルノという憎悪発話の文脈に組み込まれていった経緯(第2章)、米軍内においてホモセクシュアルであると名乗ること(憎悪発話)の禁止が意味するもの(第3章)が検討される。

憎悪発話がなされるとき、発話が媒介(行為体)となってある効果をもたらすのでなく、発話そのものが伝達であると同時に行為をなす(行為遂行性=パフォーマティヴィティ)。中傷的な発話は固有の時間性、歴史性を有するがゆえに中傷になりうる。(以下、強調部分は日本語版では傍点)

「中傷的な名称には、明らかに歴史がある。はっきりと述べられていなくても、発話の瞬間に想起され、再強化される歴史がある。その歴史とは、名称の用法や文脈や目的を列挙するような単純な歴史ではない。それは、そのような複数の歴史が、名称のなかで、名称によって、設定され、また阻まれる軌跡である。したがって名称には、歴史性がある。歴史性とは、ある名称に内在するようになり、そして名称の現在の意味を構成するようになった歴史だと理解してもよいだろう。その名称にまつわるさまざまな使用が沈殿して、それがまさに名称の一部となっている。沈殿とは、凝縮し、その名称に力を与える反復なのである」56−57

その責任は発話した主体に帰されるものではなく、後押しする複合的・反復的な権力構造にある。そこでは社会の規範という予めの排除が作動しており、それによって語りうるものと語りえぬものの境界に位置づけられる主体(サブジェクト)とは先行する行為遂行性を「引用」するに過ぎないむしろ従属的(サブジェクト)なものといえ、決して発話に先行するものではない。

「実際精神分析的に考えれば、予めの排除は単一な行動ではなく、構造がもたらす反復効果である。たしかに何かが締め出されてはいるが、主体がそれを締め出しているわけではない。主体は、その締め出しの結果として登場する。締め出しは、既存の主体に対してなされる行為ではなく、主体がこの一時的切断の結果として行為遂行的に生産されるためになされる行為である。その残余、すなわち除外されたものは、あらゆる行為遂行性のなかの、遂行可能でないものとなる。」214−215 

*最後の一文、ちょっと意味がわからない。
主体が「引用」することについては以下。

「実際のところ、反復性や引用性とは、まさしく以下のようなことではないか。つまりそれらは、行為遂行性を「引用する」主体を、行為遂行性の起源―ただし後から作られた虚構的起源―として時間のなかに生みだす換喩の機能なのではないか」78

有名なブルデュー批判は第4章「見えない検閲と身体の生産」において。言語と身体、社会制度の関係をめぐり、社会制度・社会権力をスタティックなものとして過大にとらえ、行為遂行性が既存の文脈から断絶しうる可能性を見ていないとしてブルデューは批判されているが、同じ問題を社会より言語に比重を置いて理解し、文脈から内的力によって断絶された記号の反復性に着目するデリダもまた、行為遂行性を構造的特質としてしまっているため、ある発話の社会的分析に至らないとして批判される。
行為遂行性という作用を通じ、社会的位置そのものがいかに構築されるかをバトラーは指摘し、そうした行為遂行性をともなう発話(呼びかけ)のまさに現場で、攪乱するような再意味づけ・文脈の変更の可能性を示唆している。

発話行為はそれが登場するあらゆる文脈からその内的力によって断絶している、と主張するある種の脱構築的な見解に対して、ブルデューが述べている批判に賛同したい。それはまったく事実ではないし、またとくに憎悪発話においては、文脈がある種の発話行為のなかに揺るがしえない方法で内在しているのは確かだと思われる。他方でわたしが主張したいことは、発話行為は制度の儀式ではあるが、まえもって完全に決定されない文脈を有しているということであり、発話行為が通常でない意味を帯びる可能性、それが属したことのない文脈のなかで機能する可能性こそ、まさに行為遂行性がおこないうる政治的約束であり、つまりヘゲモニーの政治の中核に行為遂行性を置くという約束であり、そしてこれまで予期しなかった政治的未来を脱構築の思想に与えるという約束である。」249−250

そしてこの議論の結論は、呼びかけられた名称(蔑称)を引き受けながらも、先行する文脈から断ち切られ、新たな自己定義を生産することで抵抗の手段とするということであるようだ。
「名前」を形成する歴史および歴史性、パフォーマティヴィティや主体との関わり合いについては納得できた(ピンと来るものがあった)。ブルデューデリダの議論それぞれの欠点を補完し、憎悪発話に積極的な文脈を見出すような結論部分はどうなのだろう。「そうなのか」とは思うものの、何というか身体的にピンと来るものは今のところない。