ポール・リクール『記憶・歴史・忘却』(上)久米博訳、新曜社

個人の記憶の現象学と集団的記憶の社会学の関係については、相変わらずよくわからない。アウグスティヌスの時間やアルブヴァクスの記憶についての難解な思想をたどった箇所をじっくり理解するだけの暇はないので、今のところはリクールの以下の示唆だけを頭に留めておこうと思う。

個人的記憶と集合的記憶の中間には、照合作用の平面が存在するのではないか。その平面では、個人の生きた記憶と、われわれが所属する共同体の公的な記憶との交換が、具体的におこなわれている。その平面は、われわれが明確な種類の記憶を賦与する権利をもつ身近な人々との関係の平面である。身近な人々、つまりわれわれにとって大事な人たちであり、彼らにとってもわれわれが大事な人たちは、自分と他者との関係で、いろいろな距離の範囲に位置している。距離がさまざまであるだけでなく、離れたり近づいたりの様態が能動的だったりとさまざまであり、その様態は、身近になる、身近に感じるといったように身近さをたえず変動するダイナミックな関係にしている。このように身近さとは友情、あの古代人に祝福されたphiliaの似姿であり、孤独な個人と、politeiaつまりポリスの生活と行動への貢献で定義される公民との中間にある。同様に身近な人々は、自己と一般人との中間に位置し、その一般人に対しては、アルフレッド・シュッツによって記述された、同時代性の関係が派生するのである。身近な人々は、近くにいる他者であり、特権をもつ他者である。(p.204)
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身近な人とは誰か。『生きた隠喩』でもそう思ったが、リクールはすごく難解で修辞的なことを言っているように見えて、いつも身につまされるところを突いてくる。つまりリクール自身、背後にそういうことを抱えた哲学者なのだと思う。

記憶を賦与するどのような道筋に、身近な人々は位置づけられるのか。身近な人々との絆は、親子関係や婚姻関係を、同じくいろいろな所属の形態による、あるいは偉さの等級による社会的関係を、横断的に、選択的に切断する。共有する記憶という観点から、身近な人々というのは、私にとってどんな意味があるのか。彼らは「一緒に歳をとる」同時代性に、一人の人生を仕切る二つの「出来事」つまり誕生と死に関する特別の調子を付加する。前者は私の記憶を逃れ、後者は私の計画を妨げる。しかもこの二つは、戸籍としてしか、また世代交代の人口統計学的観点からしか、社会の興味をひかない。何人かが私の死を悲しむかもしれない。でもその前に、何人かが私の誕生を喜び、出生の奇跡を祝福できた。そして命名により、以後私は生涯その名で自分を指すことになる。その間、身近な人々とは、相互に、平等に評価しあって、私が存在するのを承認し、私も彼らの存在を承認する、といった人たちである。相互の承認とは、各人が自分のできること、できないことについて明言するのを共有することである。それを私は『他者のような自己自身』では「証」と呼んだ。私が私の身近な人々から期待するのは、私が次のように証をするのを承認してくれることである。すなわち私が語り、行動し、物語り、自分の行動の責任を自分に負わせることが、できるということを。ここでもアウグスティヌスは師である。『告白』第十巻にこう書かれている。「その行ないを異邦人の心でなく、兄弟の心をもって(animus[…]fraternus)やってほしい。『彼らの口はむなしいことを語り、彼らの右の手は欺きをおこなう右の手です』と言われた異国の子らの心でなく、兄弟の心をもってやってほしい。そのような人の心は、私を是とするときは(qui cum approbat me)私を喜び、私を非とするときは私を悲しみます。いずれにしても、私を是としようと非としようと、その人は私を愛してくれます。私はこのような人たちに、自分のあらいざらいを打ち明けましょう(indicabo me)」(Confessions, X, IV,5-6)。私としては、私の身近な人々のなかに、私の行為は非としても、私の存在は非としない人たちを含めよう。
 そういうわけで、歴史の領野へ入っていくのは、個人的記憶と集合的記憶の両極性という仮説だけをもってでなく、記憶を自己へ、身近な人々へ、他者へと三重に賦与するという仮説をもってでなくてはならない。(p.204-205)