スピヴァクの『ジェーン・エア』論を繰り返し読む。この作家のいう「完全に男性でないとは言えないような存在(not-quite-not-male)という言葉が気に入っている。
自分のマイナーな部分が受け容れられないことに苦しむほど、私たちは「自分こそキャリバンだ」と言いたくなる。自分より遥かにましな待遇を受けている人々と同じレッテルで判断されること、あるいはそうした人々が自分もマイノリティだと名乗ることに強い憤りを感じながら。
それでも自分を手つかずのネイティヴであるキャリバンとして特権化してはならない。私たちもまた、not-quite-not-maleなのだから。
(実はポストコロニアリズムが使う「キャリバン(カリバン)」の比喩は、前から怪しいというか、しっくり来ない気がしていた。迂闊に使わないでいてよかった)
…と考えつつも、下の場所(not-male)から努力を重ねて何とかnot-quite-not-maleに上ってきたのと、もとからnot-quite-not-maleな人がより深く繊細な世界の見方としてそのように自覚しましょうというの、はたまた自分にだってnot-quite-not-maleな部分があるんだよねとアピールするのとではずいぶん違いがあるのではないかとは思ってしまう。いい子ぶって高級なこと言いやがってよと思う。だが思ってはいけない。それは感情論にすぎない。知的であるとは、とても努力を要するつらいことなのである。
そういうことを考えないために、昨日は90分のヨガクラスに行った。通常のコースより20分長い分、虎のアーサナや苦手な鋤のアーサナなど、70分のほうではやらないポーズもある。かなりきついが、一度も退出せずに済む。
それにしても室内は40度、外に出ると3度ぐらい。温度差37度というのもちょっとこたえる。
プサン・スーチョンをミルクで煮出し、チャイにして飲むと美味しいことを発見した。私はあのスモークの香りが苦手で、なくならなくて困っていたのだけれど、これなら美味しく飲めそうだ。飲み物の好みは周期的に変わるので、この前たくさん買ってしまったコーヒーも全然消費しない。去年は一時期ショコラばっかり飲んでいた。どくだみ茶ばっかり飲んでる時期や、しょうが入り紅茶ばっかり飲んでる時期や、ラム入り紅茶ばっかり飲んでる時期もある。