ジャン・ベルナベ、パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアン『クレオール礼賛』(1993)

私としてはもともとかなり批判的に受け止めていた本書だが、もう一度内容を確認。
「ヨーロッパ人でもなく、アフリカ人でもなく、アジア人でもなく、我々はクレオール人であると宣言する。それは我々にとって一つの心的態度の問題であろう。不断の心がまえの問題といったらいいか、いっそう正確にいえば、その中で我々の世界が、世界に対する十全な態度をもって構築される、一種の心的外皮なのだ。我々が伝達するこれらの言葉は理論やアカデミックな原理・原則とは無関係である」[強調はノラーエム] 
「外皮」(une sorte d'enveloppe)という表現は象徴的。「我々」は外皮を作ろうとしている。理論や原則と無関係というが、何か「我々」というまとまりの外皮を作ろうとしている。
アンティル文学はいまだ存在していない。我々はいまだ前文学状態にある」
「自らの内的建築、自分の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」の眼差しで見なければならないとは恐ろしいことである」「瞼の下に「他者」の瞳しかもたないということは、いかに正当な手続きや手法や手順をもってしても、その価値を無効にしてしまうことだ」 まったく同意。
クレオール社会にそのアフリカ的次元を回復させることによって、彼[セゼール]の「ネグリチュード」は自己切断に終止符を打った。自己切断こそ、「ネグリチュード」によってドゥドゥイストと命名されたアンティルの書き物の皮相性のいくばくかを、生み出していた元凶であった」 確認。
エドゥアール・グリッサンとともに、我々は「ネグリチュード」の中に閉じこもることを拒否し、概念よりは実際に見えるものに依拠した「アンティル性」を唱えだした」 確認。
「我々の世界のアメリカ的次元」「クレオール性はアメリカ性を包括し、完成する」 
そう、アンティルとはアメリカなのである。
「我々は同時にヨーロッパであり、アフリカであり、アジアやレヴァントやインドからもたらされた文化要素からも養分を吸っている。我々はまたコロンブスによる大陸発見以前のアメリカの文化遺産にも属している。「クレオール性」とは《回折したが、再構成された世界》、「全体性」という唯一のシニフィアンの中に含まれた諸々のシニフィエが構成する大渦潮である」「開かれた特殊性」「一つの万華鏡的な全体性、すなわち、保持された多様性に対する非全体主義的な意識」[この強調は著者]
「「クレオール性」とは誤った普遍性、単一言語主義、純粋さを打破するものだ」 同意。
「我々のアイデンティティーの根幹は複雑さ」 同意。
「我々は文化とは支える力であり、日常的な計量であることを学んだ。祖先たちは日々生まれるものであり、遠い昔の過去に凝固されているものではないこと、伝統は毎日培われ、文化は我々が過去と現在の狭間に結ぶ生きた絆であること、口承性の伝統の継承はノスタルジックな停滞やレトロの懐古モードでなされてはならないことを学んだのである」
「我々の「歴史」(あるいはより正確には、我々の複数の歴史というべきか)は植民地の「歴史」の中に難破している。集団的記憶は我々の急務である」
我々は書き物の背後にある「言葉」である。唯一詩の力による認識、小説の力による認識、一言でいえば、芸術の力による認識が、我々の存在を明るみにだし、我々を知覚し、薄れゆく我々を意識の蘇生へとつれもどすことができるだろう」[強調著者] 同感。
「我々の書き物の一つの使命は、とるに足りないヒーローたち、無名のヒーローたち、植民地の「年代記」では忘れられている者たち、まわり道をして忍耐強く抵抗を試みてきた、およそ西欧‐フランスのヒーローのイメージには合致しない者たちを顕在化することである」
共同体の英雄、神話を創設したいという願望。
クレオール語が凋落するということは、単に言語が一つ崩壊し、枝が一つ落下するということではない。一むらの葉の茂みがそっくり凋落し、カテドラルが崩落するのと同じことだ」 
言語の喪失は文化の喪失。
クレオール性は、他の諸々の文化的実体と同様に、フランス語に消えることのない刻印をのこした。[…]要するに、我々はフランス語に住んだのだ。我々の中で、フランス語は生きていた。我々はフランス語の中に我々の言葉[ランガージュ]を打ち立てた」[強調著者] 
このようなカノン(マリーズ・コンデ)は決して口にしないが、シュワルツバルトの創作はまさにこの実践であると思う。セゼールはもちろんだが。
クレオール性は単一言語空間ではない。それはまた水密隔壁によって言語間の交流が遮断された多言語空間でもない。クレオール性の領分は言葉であり、捕食の対象はすべての言語である。多言語間の接触(摩擦や干渉や発生現場)はポリセミーの眩暈である。そこでは一語が複数の語に値する」 
確認。グリッサンそのもの。
「我々は世界を、合理的に対する非合理的、完全なに対する複雑な、統一したに対する回折した……というように、多声音楽の和声[アルモニー・ポリフォニック]のようなものとして考えたい」 
おなじみのフレーズだが、本書の著者たちやグリッサンの設計主義的態度とこうした内容との距離に毎度違和感をもつ。
「我々の「クレオール性」への没入は伝達不可能ではないが、さりとて、完全に伝達可能でもない。それは伝達可能だが、独自の不透明さをともなうだろう。それは人間同士の意思疎通のプロセスに本来存在する不透明さであり、我々はそれを復旧する」 
同感。だけどまるでグリッサンの引き写し(『詩的意図』参照)
多様性の中にふみとどまること。[…]それはまた我々が、「一なるもの」と決定的なるものとの誘惑によって硬化した古い世界へ回帰することを防いでくれるだろう」
「文化とは、それぞれ、けして完成されるものではなく、斬新な問題、新規の可能性を探し求め、支配するのではなく関係性をつける、奪うのではなく交換する不断のダイナミズム」
「我々が我々の創作家たちに我々の特殊性を探究することを勧めるとすれば、それはそれが我々を「一なるもの」と「同一なるもの」から解放し、世界の自然さにつれもどしてくれるからであり、「普遍性」に対して、回折しているけれども再構成された世界の僥倖、救われた諸々の多様性の意識的調和、すなわち多様性を支持するものだからである」[以上強調著者] 
西欧を批判しながら、フランス共和主義の理念である「普遍性」(universalite)に「多様性」(diversalite)という対立概念をつきつけても、それは同じ思考回路がもたらしたものにすぎないことをマリーズ・コンデは指摘した。もちろん著者たちの主張したい内容は理解できるがコンデに同感。マニフェストとは本来そういうものかもしれないが、つねに彼らが設計主義、理念志向、構築志向、ファロス・ロゴス中心主義であることと多様性、非合理性をみとめるクレオール「理論」の内容との距離に違和感をおさえられないのだ。「我々」という口調、「我々なるものの名づけ」という発想が自然に出てこない作家たちの文学観(というほどの「外皮」は当然そこにはないのだが)との差を強く感じる。