ガヤトリ・スピヴァク『ポストコロニアル理性批判』月曜社(2度目)

比喩形象としての「ポストコロニアル」が、排除された存在である「ネイティヴ・インフォーマント」になりかわって、その存在が本来なら位置しているべき場所のうえに上書きしているということが本書の主張。時に理性的・客観的に、時に逆上しながら、つねに私の頭から離れないテーマである。
発言を公けにし続けること(活字化すること、確立された身分として署名すること)が本来もっている大きな力(権力)は自覚されるべきだ。他者の文字の力はたとえ善意の接近であっても、インフォーマントの声なき声を抹消することになりかねない。公けであることの力は本当に強い。プラスにもマイナスにも作用する。それでひとりぐらいズタズタになっても、長期的には何百人もが救われるというのが書き手の正しい野心だろう。そしてまたしても、インフォーマント自身の発言の機会、自分の身に引き受けざるをえない問題を話す機会は奪われる。公けの場で上書きされることによりいつも奪われてしまう。そして公けなものはいつでも、いつまでも否応なくこちらの目に飛び込んでくるのだ。
・・・どうやら最近、いろんな人にこのブログを発見されているようなので、あまりヒステリーは起こさないようにしよう。