フランツ・ファノン『地に呪われたる者』(1961)、鈴木道彦他訳、みすず書房、1996(1968)年

ポストコロニアリズムの文脈では評価の高いファノン。だがやはり、その著作の根底に暴力の肯定があることは致命的だと思う。民族解放のための武力闘争という大義名分のもと、唯一「革命的」な存在である農民がその行使者となるが、そこで暴力の効用は以下のようなもの:

「植民地の民衆にとって、暴力は彼らの唯一の仕事であるゆえ、積極的創造的な性格を帯びる。…各集団は互いに相手を認めあい、未来の国民はすでに一体である。武装闘争は人民を動員する。言いかえれば、それは人民をたったひとつの方向へ、一方交通の方角へと、投入する。」92

この暴力的闘争の段階から、民族建設の段階へと進むことが可能になる。

「個々人の水準においては、暴力は解毒作用を持つ。原住民の劣等コンプレックスや、観想的ないし絶望的な態度をとり去ってくれる。暴力は彼らを大胆にし、自分自身の目に尊厳を回復させる。」93
「大衆が暴力にひたって民族解放に参加した場合、彼らはだれにも「解放者」を名乗ることを許さない。」93

大衆の暴力が神のようなカリスマの出現を避け、各自に責任を持たせるという発想。「人種主義、憎しみ、怨恨、「復讐の正当な欲望」は、解放戦争に糧を与えるわけにはゆかない。」と別の箇所ではいっているが、暴力が憎しみを生産しないわけはないだろう。
譲歩、改革といったやり方が結局は本質的問題を見えなくするという、それじたいは間違っていない考えが、急進的な武力闘争へ結びついているのはわかる。譲歩(実は植民者のでなく、原住民の譲歩)の体質が後進国ブルジョワジー一般がかかえる問題、つまり資本や生産の欠落と、結果的に旧本国の仲介的役割に甘んじる現実についての分析は、70年代のグリッサンの議論とも共通してくる。そこでファノンは自給自足的な社会主義体制とか第三次産業の国有化などを目指すのだが。
セク・トゥーレの演説を引用しつつ、自分の思考を他人に譲り渡すな、労働は自分の頭脳でするものとファノンはいう。だがそれは誰の思考、誰の頭脳なのか。セク・トゥーレが自分の理念の完結に混じりこんでくる雑多なものを恐ろしいやり方で排除したのは見ての通りだ。だが、ファノンに読みつぐべき部分がないではない…。(つづく)