フランツ・ファノン(つづき)

しかし、ファノンには読むべき点もある。
植民地主義は他者の系統立った否定であること、この考えが大文字の〈ニグロ〉や野蛮人を作り、彼らに強い文化的疎外感を強いたということ。「客観性」という暴力。

「植民地支配が求めた総体的な結果は、まさしく現地人に向かって、植民地主義は君たちを闇から引き出してやるのだと説得することであったのを人は理解する。植民地主義が意識的に追求したその結果とは、コロンの退去が現地人にとって、野蛮への復帰、堕落、動物化を意味するということを、彼らの頭にたたきこむことであった。植民地の母親は、その子供を子供自身から、その自我から、その生理的現実、その生物的現実、その存在論敵不幸から、守っているのだ。」203「植民地主義は他者の系統立った否定であり、他者に対して人類のいかなる属性も拒絶しようとする凶暴な決意であるゆえに、それは被支配民族を追いつめて、「本当のところおれは何者か」という問いをたえず自分に提起させることになる。244」

●文化は単純化・形骸化したフォークロアではなく227−229、進行形のものである。隅々まで同一の大文字の「アフリカ」「ニグロ」なるものはない(cf.「ヘレマコノン」、Entretiens avec Maryse Conde 第2章)。

「人は文化を出発点として民族を証明するのではなく、占領軍に抗して民衆の行なう闘いのなかで文化を表明するのだ…原住民知識人は、文化的な仕事をしようなどと腐心しているまさにその瞬間には、自分が占領者から借り物の技術と言語を使用しているのだということが分からない。彼らはこれらの道具に、民族的であろうとするのだが奇妙にエグゾティスムを思わせる刻印を与えるだけで満足する。…彼は民衆に密着することを欲しながら、目に見える外被に密着する。ところがこの外被は、地下にひそむ、緻密な、たえず更新されつつある生の、ひとつの反映にすぎないのである。…文化はけっして慣習のような透明性を持っていない。文化は完全にあらゆる単純化を逃れてしまう。その本質において、文化は慣習の対極にあり、慣習こそは常に文化の頽廃なのである。」216−217

● 民族解放と自己意識の確立の果てには、文化の混交、外との交流が実現できる。

「文化とは何よりもまず、ある民族の表現、その好みや禁忌や典型の表現である。社会全体のあらゆる段階に、別な禁忌、別な価値、別な典型が作りあげられる。民族文化とはこれらのあらゆる評価の総計であり、この社会全体の、またこの社会のさまざまな階層の、内的かつ外的な緊張の合力である。」238「民族はただ単に文化の条件、その沸騰、そのたえざる革新、その深化の条件であるのみではない。…民族的特質こそが、他文化の入りこみうる文化を作り、またこの文化をして他の文化に影響し、そこに浸透することを許すであろう。存在せぬものは、現実の上に働きかけうるはずもなく、またこの現実を左右するはずもない。」238「自己意識は、コミュニケーションを閉ざす鎧戸ではない。哲学的考察は、逆に自己意識がコミュニケーションの保証であることを教えている。民族主義【ナショナリスム】ならぬ民族意識は、われわれにインターナショナルな広がりを与える唯一のものだ。」241

だけどやっぱり、ファノンの理念至上主義と「関係」とは本来的に相容れないとわたしは思う。