原発音頭はなぜないのか

赤坂憲雄さんの次のような言葉が印象に残る。

「私は原発立地の町や村が新たな地域社会を立ち上げていく姿を想像できないでいます。とても厳しい言い方になってしまいますが。原発は、炭鉱とちがって地域に歌も物語も生まなかったのですね。きわめて特異な地域社会なのです」(9月10日付朝日新聞


確かに炭鉱には炭坑節も物語もある。この決定的違いは何なのだろう。
炭鉱労働も原発も貧しさと切り離せない、世の中のヒエラルキーと無関係なものではないのに。
原発エネルギーそのものの人間には制御できない途方もなさのせい?
危険の見返りとしての法外な(危険の大きさを考えれば高いとはいえないにしろ)報酬のせい?
そのせいで、こつこつとする日々の労働が消え去ったせい?

講師室で誰かが忘れた授業用プリント(吉本隆明氏のインタビュー記事)にふと目を留め、読み込んでしまう。
不勉強ながら、私この有名思想家が筋金入りの反・反核の立場なのだと知らず、発言の内容にかなりびっくりしました。
いやもちろん、世の中さまざまな意見の人がいるのは許容するが、政治家や経済人でなくこういう職業の人がこんなに進歩史観なこともあるのか……。