福島原発事故によせて

現在進行中の原発事故を前にしながら「識者」たちから発せられる楽観的なコメントの根拠はどこから来るのか。
昨日の朝日新聞に載っていた小宮山宏前東大総長のインタビュー(「科学技術は負けない」)記事を読み、あらためて感慨を持つ。
「私は押さえ込めると思っています」「原子炉に制御棒が入ってから20日がたち、大惨事は回避されました」「化け物をコントロールできなくなったとか、怪物だとか、そんなふうに考える必要はまったくありません」
プルトニウムはじめ、人間の手におえない物質を無理矢理扱い、やはり扱いきれなかったという事実が目の前で証明されながら、なお「押さえ込める」と発言するのは認識を誤っている。
先週来、タービン建屋の高濃度汚染水が話題だが、今夕、毎時1000ミリシーベルトを超える放射性物質を含んだ水がたて坑の亀裂から直接海に流れていたことがわかった。
これまでも東電、保安院、政府関係者は「ただちに人体に影響をあたえない」という表現をくり返しているが、「ただちに」でなくても、空気や水や食物を通し、長い時間をかけ蓄積されてゆくことは大きな問題だ。
そして同時に、とりあえず「人体」がよければいいのだろうかという疑問がある。
海の水、地下水、空気、土壌に本来あるはずのない放射性物質を紛れ込ませ、将来にわたり汚染してしまったことは、すでにそれじたい「大惨事」だと考える。
誰かにとっての郷土が、その土と水が、人間の生のタイムスパンでいえばほぼ永遠に汚されてしまったわけで、環境保護の意味ではもちろん、「愛国主義」(または「民族主義」)的観点からも、福島県民の、あるいは日本人の、地球人の尊厳にかかわることだ(本来、右翼は怒っていい局面だ)。
この期に及んで、保安院の役人や東電役員やテレビに出てくる学者たちが、「この程度なら問題ない」「沖へ流れれば希釈されるから大丈夫」とくり返し、今後もなお原発増設・維持を推進しようとするのはどうしてなのか。
もっとも顕著な例は、地震国・日本がその国土に原発施設を作るのは運命であり、これからも変わらず推進したいと述べた与謝野馨大臣で、この局面での発言には言葉をうしなった。
仮にこれまで原発推進論者であったにしろ、このような惨事を前にすればとりあえず衝撃を受け、立ち止まり、最終的な結論はどうあれ、もう一度熟慮するのが知性だと私は考える。
思うに彼らは、自然も原子力も何もかも、人の知力で押さえ込めると信じ過ぎているのではないか。
みずからのプログラムが完璧だと思うあまり、偶然や「他」からの作用をつねに度外視してはいないか。
そしてもうひとつ。
社会や国家に対してこれまで描いていた成長型のヴィジョンを、想像力なくまた維持していけると思っていないか(震災前でさえジリ貧だったにもかかわらず?)。
高い知力を持つ人の陥りやすい罠だと感じるが、私は人間の知力が自然や原子力のような巨大なものを制御できないだろうと思うし、優秀な人間が描いたプログラムだからといって万能なわけはないと思う。
そう信じるのは傲慢にすぎる。たかだか人間のくせに。
私もまた、エネルギーや物不足で多少不自由な生活で(被災地にはおよびもつかないけれど)、自分が無計画な夜のスーパー通いを日常とする馬鹿みたいな都会人だったことを実感した。
3月11日以前と世界は変わってしまった。
自然エネルギーへの転換に圧力をかけていた電力会社も、皆がそれをもとめればもはや阻みきることはできないだろう。
謙虚さを取り戻して、鮮やかにヴィジョンを描き変える時なのだと思う。