砂の女

安部公房が1962年に出した小説『砂の女』を大あわてで読む。
この前読んだのはたぶん中学生の時のはず。
そのわりには意外と覚えているものだ。
「モッコ」って何だろうと思ったことを思い出したが、もっと難しい言葉が他にも出てくるのに、なぜそれらはすっとばすことができたのだろう。

折しも、テレビをつけたらモッコならぬモロッコのフェズが映っていた。
ペルシア絨毯や真鍮のランプなどが山積みになった迷路のような町で、人々が語らいながらミントと砂糖をたっぷり入れた紅茶を飲んでいる様子が何ともエキゾチックで魅力的だ。
旅行した友人が「すばらしかった」と狂喜していたのを思い出すも、この迷路から出ることなく一生を終える人が多くいるというナレーションを聞いて思わずぞっとする。

外を歩く自由もない暮らしがいやではないのか「男」につめ寄られ、「女」はこう答える。

「歩きましたよ……」
「もう、ほとほと、歩きくたびれてしまいました……」

砂に埋もれそうな家にとどまることは、歩かないですむ自由の謳歌

そんなことってあるんだろうか。
あったのかもしれない、特に戦後の混乱の少し後の時代だったら。


ところでまったく関係ないが、小さな子供が眠い時にぐずったり泣いたりすることと、おしっこを極限まで我慢することが、見ていていつも不思議だ。

書かなければならない原稿があるわけでもないだろうに、眠ければ眠い瞬間にぱたっと寝ればいいではないか。
おしっこをした方が気持ちがいいのだから、してしまえばいいではないか。
なぜ自由な立場を謳歌して、心地いいようにしないのか。

どうしてそうなのか、幼少時のそうした場合の記憶をなくしてしまった。
子供を育てていればわかるのだろうか。

大人が思うほど、子供は完全自由や快楽を満喫しているわけではないのだろうか。
幼少時の気分を思い出すと、そうかもしれないとも思うけれど。