さいたまへの帰還ノート

手持ちの本も自分の書棚もなく、何日か過ごす間にその場にあるものを見つくろって読んだのは、つげ義春全集(5)(「紅い花」「やなぎ屋主人」他)、宮本常一『海に生きる人びと』、夏目漱石草枕』など。
草枕』はこの間仕事で話題になり、すっかり中身を忘れていたので読み返してみて「そういうことだったのか」と思ったが、忘れていたというよりは、30年以上前の自分がこれを理解したわけはないだろうと思った。
つまらなかったという覚えも特にないだけにいっそう、いったいこの本に何を読んでいたのかと不思議になる。

小学5年ぐらいから中学生にかけ、公には『りぼん』と『週マ』を愛読する一方、新潮文庫を片端から読むのをお洒落で大人っぽい習慣と思っており、密かな自分のファッションにしていた。
それ以外の生活のことは実はあまりよく覚えていないのだが、数日前、30年以上ぶりに再会したクラスメートたちから聞いた断片的な話の集積により、自分自身が今手を焼いているチューボー並みの大学生と寸分違わぬ騒いでばかりの悪ガキチューボーの一味であったことがわかってくる。
自分の記憶力がみんなに比べて意外と相当悪いことに気づかされショックだった。
なぜそんなにも忘れてしまっているのか。
当時の私たちがあまりに子供っぽく悪すぎて担任の教師は県外の閑職に飛ばされたのだと、一次会では本人から告白があったのだという。
そして今、因果応報…になりませんように。

いずれにしても、そんな子供があれこれ読んだところで、『草枕』の芸術論などわかるわけあるはずない。
それではそこに何を読み取っていたのかが謎である。

それはそうと、すでに盛り上がっている二次会の会場に入るなり、まったく見知らぬおじさんやおばさんたちに囲まれ「norah!」「norahちゃん!」と親しげに呼ばれて、あまりの眩暈にしばらくもうどうしていいかわからなかった。