一世紀の壁

1910年(明治43年)生まれの祖父が死去。
ああもう少しで100年、惜しいと思うと同時に、とはいってもやはりほぼ100年、ひとりの人間が見てきた一世紀とはどんなものだったのだろうとも思う。
生まれたその年には大逆事件韓国併合不二家が創業、セーヌ川が氾濫して大洪水、メキシコ革命ポルトガルが王国から共和国へ、柳田國男が『遠野物語』を出し、リルケが『マルテの手記』を出した。
同年生まれにマザー・テレサジャン・ジュネ白洲正子など。
1歳で大正時代を迎え、2歳の時、プルーストが『スワン家の方へ』を上梓し、3歳で第一次大戦、6歳でロシア革命、12歳で関東大震災、14歳で昭和になり、28歳で第二次大戦、33歳で終戦、41歳頃からテレビを見始め、57歳で人類が月へ行き、79歳で平成になり……

いつも上機嫌だったが性格は今ひとつよくわからず、だから最近はわりと意識的にこちらから話を聞くようにしていた。
家督を長兄に任せっきりで趣味の炭焼きにいそしみ、それが上出来なのでよく売れて、小金を稼いでは一人旅をしていた江戸末期生まれの祖父の父の話が面白かった。
山陰から東京や東北まで旅して、大正天皇の葬列に立ち会ったり、生まれた孫のためのお札を平泉でもとめたりしたという。
でもこれも曾祖父についての話で、祖父自身についてはよくわからないままだった。

お茶どころゆえなのか、行くと必ず自慢の茶器で抹茶か煎茶を淹れてくれた。
日本茶とはこんなにただただ甘いものなのだといつも驚いた。
地元紙をはじめ、新聞3紙ぐらいの記事を毎日テーマごとに切り抜いては製本していたが、これは私にも遺伝(?)していて、平成20年代のネット社会になってもまだ、私はよく新聞を切り抜いている。

いい子供と人間の屑のような子供に恵まれた。
身近に人間の屑がいる場合、息子が人間の屑なのと、夫が人間の屑なのと、父親が人間の屑なのとどれが一番ひどいだろうかとひとしきり考えもした。
でも子供が何人もいると、ハズレもあるけどまあアタリだってあるから、それほど気に病む必要もないかもしれず、何というか健全でうらやましい生だなあと思う。