江東区女性拉致殺害事件

東京地裁での公判の様子があちこちで報道されているが、見たり読んだりしていて何とも不穏な気分になる。
残酷な事件には違いないし、死刑制度の是非は置くとしても、犯人には相当の罰があたえられるべきだろう。
だからといって生々しい遺体の部分が次々映像で映し出されたり、罪を否認しているわけでもない被告に対して、検察の人間が「鬼畜」だの「悪魔」だの情緒的な言葉を投げつけるというのはどういうつもりなのか(糾弾しながら感極まって泣いたりすらしたそうだ)。
報道によれば、わかりやすく視覚にうったえるこうしたやり方は、5月からの裁判員制度にそなえてということらしい。
そもそも私は司法のプロでもない人間が裁判にかかわるなど反対だが、言葉で聞いて理解できないような人間が判決に加わるなどなおさら問題だと思う。
モデルケースのつもりだろうが、司法のプロの側がこんなやり方をしたのなら、言葉を使って理性的に判断する訓練をされていない普通の市民は大方感情に流され、厳罰へとひた走るのではないか。
もはや裁判ではなく、血祭りになってしまう怖れもある。

朝日の社会面に「人を裁く」というシリーズ記事が掲載されている。
それによると陪審員制度のあるアメリカの裁判では、殺人の被害者の生前の映像を流しながら抒情的なBGMがかかったりするらしい。
アメリカはライブで見るべきスポーツ中継すら編集して変にショウアップしなければ気が済まない、感動のセンサーが壊れた国だけれど、法廷ですらこれだなんて、まったくどうかしているとしか思えない。