いじましい読書


博論を書き終えたら、創作をしたいし、ちゃんとした翻訳もしてみたいし、もう少し仕事人らしい態勢も整えるべきだろうし、パソコンをどけてミシンを置いて好きなだけ服を作りたい、などなどいろいろ夢は膨らむが、やっぱりもっと真面目に読書をしたい。
確かに今だって本を読んでいなくはないが、論文など書いていると、つい「これは使える」「自分の論に引きつけられる」などという卑しい読み方をするようになりがちだ。
そんな読書でさえ、理性的に面白いものもあるにはあるけど、結局のところ何も残らない。
いや、楽しく溺れて読んだものすら、私の場合まったく忘れてしまいがちだし、研究しながら読んだものでも、素直に読めばすばらしいのもあるはずだけれど…。
仕事として文学に接する以上、この種の味気ない読書は完全には避けられないものだとしても、それだけでは文学から遠く離れてゆくばかりだと自戒したい。

ところでこの時期、少しずつ鈴虫が死んでゆく。
8匹いたのが今3匹。
死ぬと「あーあ、死んじゃった」と思う。
死亡の発見が少し遅れると乾いてしまい、土の上にひじきが落ちているのかと見まごう。
カブト虫が死ぬとペットロスを感じていたほどなのに、この温度差はなんだと考えると、鈴虫ってまったく個体による性格の違いがないのだ。
少なくとも私には見分けられない。
カブト虫には、踊りの好きなひょうきん者、荒くれ者、DV野郎、弱くて大人しいの、非モテ女などいろいろなキャラがあった。
DV野郎は怒りにまかせて干してやったし、それぞれに目をかけていた。
同じ昆虫でもずいぶん差があるものだ。
鈴虫の羽音だけは、いつ聞いても心地よい。