池間苗さん

波多浜沿いにある民俗資料館、といっても普通のお宅の狭い一角を訪ねたら、館長の方が歓迎してくださり、とても親しげに与那国の話やご自分の話を聞かせてくださった。
今年で90だという池間苗さん。
そのうち久部良にできた老人ホームに行くのかしらとおっしゃるので、うちの祖父は99、祖母は98で普通に元気だというと、喜んで握手をもとめてくる。
「あなた素敵ねえ」といって何度も腕や手をつかまれる。
会っている間何度もスキンシップしながら、すごく握力がある人だなと思った。
ただ者ではない。
以下は聞かせていただいたお話。

少女時代、今のように久部良港からでなく、この祖納から船に乗って台湾の基隆へ渡った話。
当時の波多浜は道路も樹林もなくもっと広くて、ここから直接に台湾が見えたという。
初めて行った台湾は外国風かと思っていたのに、誰もが日本語を話し、日本風でびっくりした。
島民はひんぱんに台湾へ行き、育てた豚やカジキを売りに行った。

若い頃、身長が161センチもあるのがコンプレックスで、いつも首を縮めて歩いたこと。
与那国出身というのも恥ずかしく、聞かれるとわざと「八重山出身」といっていたこと。

水が豊富な島で、田原川で洗濯や入浴をしていたこと。

子供が生まれたら門の外に数日間吊るす魔除けの紐、シルンナの話。
男の子と女の子で結び方が違う。
揺り籠はかわいい円形で、ここにも飾りのリボン、ではなく魔除けの紐が。
NHKのドラマ『琉球の風』撮影のため、揺り籠は東京に持って行かれ、苗さんまで連れて行かれ、昔の衣装を着せられ、セリフまで言わされたとか。

20数年前、この資料館を開館した頃は「与那国の土人はどこにいるのか」と訪ねてくる人もいたので、「私です」と答えていた。

与那国島が最初に記述された朝鮮の書物『済州島漂流民の見聞記』が縁で済州島まで行った話。
おみやげに向こうの学者からたくさん関係書をもらい、本棚にはハングルの本が置いてあった。

帰り際に買った池間栄三氏(亡くなった夫君)の著書『与那国の歴史』(1959年初版)が興味深かったので、ちょっとネットで調べてみたら、苗さんは与那国の言語と文化の生き字引的存在にして、19世紀末まで島で使われていた象形文字カイダ・ディの唯一の解読者というすごい人だった。
苗さんの編纂した『与那国ことば辞典』は確かに置いてあったが、重いかと思って買わなかったのを後悔。
検索すると1万数千もヒットして、観光客から研究者までが苗さんについて書いている。
司馬遼太郎街道をゆく―沖縄・先島への道』を見てみたら、「与那国島」の冒頭に出てきて司馬遼太郎がお世話になる「初老の品のいい婦人」も苗さんであった。
それで私も、ネット情報のひとかけらとして、苗さんのお話を書き留めておくことにしたのであった。

台風の暴風域に入りつつある今夜の与那国、苗さん、どうぞご無事で。