まる写しとブログ文体

教務課で学生のレポートを受け取り、その場で読んで成績をつけてしまおうと思っていたのだが、「まる写し」臭いものをいくつか発見。
いちおう裏を取らねばならず、思いのほか手間取ってしまう。
(ほんらい閉室の講師控え室で、いつもかわいがって下さる事務のお姉様方にお三時を出していただく)

いわれて久しいことだが、今の学生の文章力が驚くほど低い。
一生懸命自力で書いている学生の文章が下手すぎるため、かえって「まる写し」文章の高度さが目立ちすぎてしまうのである。

クレオール文学のもうひとつの導火線が奴隷船の恐怖の中で生まれた」
語り部はなかば公然の人物となっており、叫びを受け継ぐその言葉を粉飾しなければならず、企みの描線を手の込んだものにしなければならなかった」
「それはそこで生き延びなければならないアビタシオンの美学(一方にとっては抵抗=生存すること、他方にとっては支配すること)との衝突の美学であるように思われる」
(この俺様が出典を見破れないとでも思ってるのか!)
(俺様でさえ「衝突の美学」なんて表現、若気の照れからいまだに書けないのに)

当たり前の常識ですが、こういうのはネットからのコピペ同様ぜったいやってはいけないことなので、もしも学生で読んでいる人がいたら肝に銘じてください!

一方自力で書いた文章に目立つ、レポート用の書き言葉とは思えない幼い表現の数々(私の教えているクラスの場合ですが)。
接続詞として多用される「なので」、「○○だけど」や「いまいち」。
こういう傾向はなぜなのか、どうしたら改めさせることができるかと最近知人教師と話したことがある。
携帯メールやブログの氾濫の中にあって、活字や論文用の書き言葉がどういうものかわかっていないのではないかとか。
そういいつつ、私などもここで「〜だけど」とか「とか」とか平気で書いているわけで、そういう傾向に加担しているのかもしれないけれど。
もちろんこちらはブログ用、論文用、はたまたエッセイ用と文体を使いわけているのだし、あるいはあえてブログを硬い文体だけで書いたり、論文を柔らかい文体で書いてみるという選択肢だってあるのだが、いずれにしても書き手としてそのニュアンスを区別し、そのうえでコントロールしているには違いないのである。
学生のレポートを読んでいると、多くの場合、その区別とコントロールができていない。

こういうのは個別の表現を注意してもキリがないし、要は文章すべてに対するセンスの問題なので教えるのはむずかしい。
本を読めとしかいいようがない。
知人教師は悩んだ挙句、「っていう」という表現を使ったら減点にしますと授業で宣言し、そうしたらとりあえずレポートからその表現は消えたそうだ。
うーん、言葉も文章も具体例の積み重ねだから、ひとつでも知らないよりはいいのかなー。

まあ、私はやさしい先生なので、文章力がなくてもちゃんと自分なりに考えて書いている学生にはいい成績をあげているのだが。