田中克彦『名前と人間』

田中克彦先生は、普通名詞しか出てこない学問は清潔だが固有名詞だらけの学問は不潔だと思っていて、固有名詞への憎悪が募って『名前と人間』という本を書いたそうだ。
憎悪が募るといいながらそこに偏愛もあるわけだが、どのみち固有名詞は普通名詞に比べて身分が低いというのは変わらない。
固有名詞は普通名詞に比べて体系化しにくい。
本質を論じるには邪魔なものだ。
…まあ、そうかもな。
「意味のあるもの、意味を伝えるものだけがことばだとするならば、固有名詞の条件が、意味を失うものである以上、それはもはやことばでないということになる。ここから意味をもつと、意味をもたない名前という区別が生まれることになる」
通名詞=「名」は意味をもつが、固有名詞=「名前」は知識・情報を伝えるにすぎない。
だから固有名詞とその語源(または概念)というのは、いつもではないけれど、おおむね関係がない。

数学や論理学をやっている人、あまり言葉を使わず手や体を動かす仕事の人などと比べると、私など人一倍固有名詞にまみれた卑しい人間だと思う。
固有名詞の氾濫で肝心のことが抜けていくと感じる時もあるし、普通名詞だけに囲まれて生きている人を高尚でうらやましく思うこともあるが、それでもついそちらの方へと関心は向いてしまう。
どうしてだろう。

小学生と知っているサッカー選手の言いっこをしながら、つい真剣になっている。
こちらはそろそろ記憶のせいで人の名前が出にくくなっているのだが、それにしてもコンスタントなサッカーファンというわけでもないのに、なんでこんなに知っているのだ。

サッカー選手となると結構くわしい小学生だが、呆れるほど地名にうとい。
うちの最寄駅の名など100回言っても覚える気がない。
旅行に行った土地の名さえ覚えていない。
自分の子供時代を考えると、幼稚園ぐらいから山手線の全部の駅や京浜東北線の東京・埼玉間の駅の名を覚えるのがすごく楽しく、それを間違えずに順序どおりに言ったり変形して言ったりするときの高揚感は今でもちゃんと記憶している。
東海道五十三次全部を覚えるときも燃えた(まさしく何の意味もない)。
つくづく固有名詞タイプの人間なんだと思う。

名詞の話から逸れるけれど、小学生と幼稚園児と三人でゲームをしていると、幼稚園児のほうが断然こちらの言葉に反応を示す。
「うわ、すごい命中率」というと「めいちゅうりつってなに?」
「入る確率が高いってこと」「かくりつってなに?」
こういう説明している私って頭悪いよな。
「拮抗してるよねー」「きっこうってなに?」
「実力がスレスレだってこと」「すれすれってなに?」
ほんとにつくづく馬鹿である。