図書館篭もり(初日)、高橋悠治

軽量のノートパソコンも装備できたし、前からの決意通り、金曜日は近いほうのキャンパスの図書館に篭もって少しずつでも論文を進めることに。
初日の今日、あまりにはかどったので大満足する。
飲食物持込禁止の図書館に陣取り、デスク周りにはパソコンと資料だけ、というこの追い込まれ感がいい。
紅茶を淹れるポットもカップもなければ、ネットでついブログを書いたりテレビを点けたりもできず、つい意識をうしなって気がつけば2時間後、なぜならそこに布団があったから、なんて失策もない。
なぜ今までこうしなかったんだろうと後悔。

休憩しにキャンパス内に新しくできたカフェに入ったら偶然ちびっ子らに出会い、印哲の子たちとコーヒーを飲みながら仏教のさまざまな話を小一時間ほどしたのもいい息抜きになる。

新しいパソコンはバッテリーが10時間もつという謳い文句だったけれど、5時間ほど経ったら切れてしまう。
たかだかワードを開いていただけなのだが、そんなものなんですか?
いったいどういう使い方をすれば10時間もつことになるのだ。

こちらのキャンパスは薄暗くてあまり好きではなかったけれど、日暮れ後は石造りの校舎のそこここから柔らかいオレンジ色の光が洩れていて、結構きれいだと思った。
大江戸線の駅から帰ろうとして、駅構内の壁にいろいろな詩人の言葉の断片をつらねた作品があるのに気づく。
入沢康夫とか松浦寿輝とか財部鳥子とか伊藤比呂美とか、その他いろいろ現代の第一線の人々の面白い言葉。
さっと通り過ぎてしまったが、今度ゆっくり読んでみたい。
それにしても文教地区の駅はさすがに知的なんだな。



高橋悠治氏が少し前の新聞インタビューでいっていた言葉。
高齢の芸術家は歳を経たからといって「円熟しない」ものであり、同時に「喪失感を知」っているという(記者の日本語が変すぎるので意訳)。
前者はよく聞くことだが、後者にははっとさせられる。
「喪失感は、沈黙の役割を知ることにつながる。作品の隠れた部分、沈黙で縁取られた世界こそ、作品の重要な部分だと思う」