死者を悼むということ、石原コメント

秋葉原通り魔事件の報道にかぎらず、殺人事件の被害者たちというのは、生前いかに美質をもっていたかをくり返し報じられるものである。
「音楽業界で活躍する夢をもっていた」「腰に薬を貼ってくれる優しい子だった」「子煩悩な父親だった」。
トラックで突進され、避ける間もなく亡くなった人が「正義感が強かった」ことは、事件そのものと何の関係もない。
意味をなさないメディアの紋切り型と感じられる一方で、やはりこれは死者を弔う習慣の表れには違いないという気がする。
とことん形骸化したものではあれ。

中上健次の訃報に同僚とともにうなだれていると、作家と懇意にしていた(ことになっている)上司が入ってきてさも迷惑そうにこういった。
「ったくまいったな、この忙しいのに中上さんの葬式行かなくちゃなんないのかよ」
その妻である経営者は別の折り、同僚のひとりの親族が亡くなり、同僚が一日帰省したいと申し出ると、
「この忙しいときにあなたはお葬式に行くっていうの? おばあさんのお葬式でしょ、ふつうは行きませんよ。でもあなたは行きたいっていうのね。信じられないけれどね」
と嫌味の集中豪雨を浴びせていた。
行くだろ、ふつうは、おばあさんが亡くなったら。
それにひとり抜けたぐらいで、どうにだってフォローできる程度の仕事だろ。
今思い返しても最強の悪人カップルだったが、葬儀に出席するかどうかは副次的なこととしても、死者を悼むという感情をまったく知らない、人としてつくづく悲しいふたりであった。

ところで今回の事件についての石原都知事のコメントには、部分的に同意できる。

「東京・秋葉原の無差別殺傷事件について、東京都の石原慎太郎知事は10日、都庁内で報道陣の取材に応じ、行政として未然に防ぐことはできるのかとの質問に対して『そんなこと、できませんよ。時代の文明はみんなでつくったもんだ』と述べた。さらに『警察力強化で防げる問題じゃない。人間の内面の問題だ』と指摘した。
石原知事は『ああいう人間っているよね。ただ、ああいう形で爆発するかしないかってのは、時代も背景にあるんでしょうけど。みんな鬱屈(うっくつ)してるよ、今の日本人は』と吐き捨て、『文明の便宜が進んでも、人間はやっぱり芯(しん)は孤独になっている感じがする』と語った。」

行政レベルでの対症療法や警察力強化で解決できない問題というのはその通りだろう。
やはりこの人は行政を担うようなタイプの人間ではない。
「時代の文明はみんなでつくったもんだ」「人間の内面の問題」というのも同感できる。
このあたりの表現で「知事はやっぱり作家」などと単純に評価する人がいるけれど、ここから先をあえて考えないのが石原慎太郎である。
現代の世間にはいろんな人間の思惑や欲望が渦巻き、鬱屈したやつ、悪いやつもいる、そういうもんだ(だから俺が悪くて何が悪い)。
いうまでもなく、そういうのは文学ではなくポピュリズムだ。
事件について直接言及しないにしても、その片隅ではこういう事件が起きている世界に対してどういう姿勢・どういう距離をとっていくか、こういう事件を含む世界をどのように食べて吐き出すかということについては考えてゆきたい。