空虚な中心としての私

冷たい霧雨のなか遠路帰ってゆく人たちを見送り、カフェで一息ついていると、空が少しだけ白くあかるくなった。
あたらしい自分の名前として「こやみ」というのを考えつく。
私はどうにも散文的で詩の人でなく、瞬間勝負に弱いところがコンプレックスなのだが、小止みの緩やかな失速、滞留、でもまた次につながっていく感じというのは、けっこう自分に合っている気がする。
そしてコーヒーを飲みながら、とつぜん鼻血。
興奮すると鼻血が出るというのは迷信なのか根拠があるのか知らないけれど、自分のことでいえば確かに盛り上がった授業前とか、精一杯がんばってもてなした後とか高揚状態のときに多い気がする。
鼻血は「鼻血ブー」などとなぜか揶揄され笑われる症状で、自分でも痛くも痒くもないせいか、特に気負ってお洒落しているときなど、ますます滑稽な感じがして笑ってしまう。
自分のうんちの色・形状を報告する子供みたいに、人にいいたくなってしまう。
しかしその後頭がぼーっとしてしまうんだけど。
小病みというのも、私が親しい東洋医学の「未病」に似ていて、自分らしくていい感じ。
さらに小闇と考えるのはどうだろう。
ペノンブルとかオパシテとか、そういう雰囲気、そういう状態、嫌いではない。
というか、小止みは小病みで小闇だな。

名づけのことと体のことを考えることが多い。
でも教養が足りないからうまく説明することができず、いつも人に伝えられない。

親しみを込めてファーストネームで呼んでもらいやすく、その点でこれは自分の名前だなあという実感はあるのだが、本来名がもつべき場との関連性というか、端的に意味が不明な名前である。
いわば空虚な中心。
名づけた人の実体のない欲望を反映しているかも。
それに姓が組み合わさると、まさに中心と中心の闘いというような騒がしさとも思えるけど、ぶつかり合う接点の亀裂に注目することだってできる。
名づけきれないから、とりあえず中心と呼んでみるということもある。
人は自分の名のもつ魔力に引きずられるものだから、いろいろ考えることは多いのである。

中心に対してフリンジな名を考えて「縁子(へりこ)」。
そんな名前、聞いたことないな。
フランス式にHを発音しなければいいか。
自分の名と友達の名で、中心と周縁だ。