病気の季節

昨日、同年齢の友人が受けた大手術を気にかけていたら、その友人につき添っている夢を見た。
ハワイで4,50年代に作られたという、こけしめいた素朴な人形がその夢のモチーフになっていて、細かに異なるいろいろなヴァージョンがあり、デッドストックものが最低でも68ドルはする。
周りのツウの知人たちはホノルルに行けばそれを探してくるようで、そんなことも知らなかった自分はシロウトだなあと思いながら、病床にある友人が蛙の扮装をしたそのこけし人形をだいじにしているのを見て驚いた。
しかし症状は重く、吐き出した血が昨夜飲んだジュースと同じ葡萄色でリアルだった。

生き死にがかかっていては、胸だの髪だのいってる場合でなくなり、と口先できれいごとをいうのとも違って、粛々とした感じで普通にその喪失を受け容れるのかもしれない。
そんなことを考える途中にも、意外に張っていてたまに痛みがある腰のその張り具合を鍼灸院でじかに調べられながら、文脈は違うにせよ、その動作がウエストの肉のつき具合を調べられるのとまったく同一の動作であることに乙女心が微妙に疼くのもじじつであり、きっとそういう受け容れは突然のことで、直前までは、下膨れなのに頭の鉢が小さく(頭が悪いから?)頭頂部の髪がぺたんとしてしまうことや、具体的にはいえないが胸のはみ肉というような、人の生という観点から見ればまったく瑣末な事態をあれこれ気にし続けるのだろう。
というか、あるうちは今のところ自分の一部であるそれらと具体的につき合い、ぶつぶつと気にしていればいい。
どうでもいい悩みとしてであれ。

世間に対して「人並み」の外見を保つという意味では、医療用シリコンとか、カツラとかイヴ・サーラとか、今の日本にはすぐれた製品がたくさんあるから使いたければ使えばいいが、人体のバランスという観点ではどうなのだろう。
人体がひとつの宇宙で、すべての器官が揃い、しかるべき場所に配置されていることで均衡が取れているとしたら、その一部が外からの力で消去されるというのはその均衡を崩すことになるんじゃないか。
特にふたつで1セットとなっているような器官は心配だけれど、逆にひとつになったら孤独なその状態に順応し、器官としての生き残りの逞しさを発揮するというような進化を期待したいものだ。

お年頃なのだろうが、こういう病気の話が多い。
平安時代なら長寿の祝いをされ、近世ヨーロッパであれば魔女狩りの対象とされた年齢・性別なのだから、寿命は延びても、器官のひとつやふたつ死んでいくのは当然なのかもしれない。