信仰と知性

(特にキリスト教の)信仰と知性は両立するのだろうかと強く疑問に思うことが多い。
でもきっとするんだろう、遭遇したことがないだけで。
偏見をもってはいけないと思いつつ、独善や狭量、自己批判のなさに閉口した経験が何度もある。
それに加えて、明治以降の日本に独特なのだと思われる、信者がもつある種の階級意識(東京地方の一部に集中しているのかもしれないが)。
どうにも共感しようもないが必ず耳にする、カトリック信者のプロテスタント批判と、プロテスタント信者のカトリック批判。
そういいながら、疑わないことにつねにきびしく評価を下す自分もどうなのかと思う。
信じないことの恐ろしさについても考える。
信じることのありようの問題だと思うけど。
文学はもちろん、あらゆるジャンルの学問に関係してくるはずだ。

若い友人にメキシコ料理をご馳走になり、感激。
お世話になってるからだって。
こっちだってお世話になってるのにな。
いつも勉強を教えてもらったりとか。
茶芸館で中国茶をお返しする。
外に出たら満月。