社会の縮図

やはり今日のこの日、地元の駅に降り立つとテレビ局の報道車とパトカーがあちこちに。
本人の罪はもちろんのこと、夫の社会的身分を自分に投影して恥じない妻ほど不快なものはない。
だがそうした存在は、程度の差はあっても、どこにでも見られるものだ。
その呼称が奥さんであれ、連れ合いであれ、パートナーであれ。
どうにもフェミニンなこの浅ましさ、厚かましさ、矜持というものの皆無。

その分野を語るにあたって避けてなど通れない、生身の人というよりはほとんど活字世界の人の名を、その同じ日にストーカーまがいのしょうもない人物の名として聞く。
不思議すぎて目眩がするが、そういうことはあるだろう。
優秀であればいいわけじゃない。

とはいえ。
こちらが500冊読む間に1冊しか読まない人々と交流するのは心底困難である。
知的に共有するものはほとんどない。
三者との接し方、語彙、しゃべり方、身のこなし、客観・主観など考え方のくせ…
相手に合わせて態度を変えていかなければ何も通じないことの、もう長年の疲労困憊。
せめて50冊に1冊ぐらい読んでくれれば、もう少しは違うだろうとも思う。
(マジで500冊に1冊ぐらいなのである)
もっともこちらの趣味に到底合わないベストセラーやビジネス本を薦められてうんざりするということもない分だけ幸運というべきなのか。
だがほんとに交流不能の真の他者は、そこそこ本を読む人物だ。
知恵なき者が本など読んでも無用なだけ。
norah家に栄光なし。