新宿区ヘレマコノン

粗っぽい態度を改め、少し神経質にピリピリするぐらいの緊張感で臨むべきなのだと思っていたら、本当にピリピリし過ぎてしまい、過呼吸気味になり、腕だけでなく胃まで痛くなってきた。
緊張と痛みをとってもらうため、週に二度も鍼灸に行くという贅沢をしてしまう。
ほんとにくつろぐ。
ヘレマコノンは「私」を守ってくれる秘密の隠れ家。
マリンケの言葉で「幸福を待つ」ことを意味。
…なんて茶化している場合か!
一本ぐらい私にも打たせてください、といったら、ニヤっとしてかわされた。
もうひと押ししたらやらせてくれるかな。
頭のてっぺんに打つこともあるのだそうだ。何だかすごく効きそう。
しかし、今日の施療で週末乗り越えられるかが問題。

内田樹先生は好きなところとダメなところがあるが、これなどは好きなところ。

原理的に言えば、あらゆる学術情報は「棄てるため」にある。
必死になって研究するのは、その研究成果が「実は無意味」なものであるということを確認するためなのである。
「無意味なことはできない」という人間は学者には向かない。
あまり知られていないことであるが、私たちにとって「意味のあること」の有意味性はどのように構築されているかではなく、私たちにとって「無意味なこと」の無意味性はなぜ知的に把持され得ないのかを問うことが根源的に学術的な知性のあり方なのである。
真の知性は「存在しないもの」、私たちの意識から絶えず逃れ去ろうとするもの、知性が把持することのできないものを選択的に追う。

こういうのは勇気づけられる。
棄てた暁の「ワイルドでカラフルな仮説」。「重箱の隅をつつく」学問でなく。
でも私など「棄てる」というより、その前に全部忘れて雲散霧消したりするから、仮説とも業績とも無縁な、痕跡なきただの生でしかないけど。
無意味なことをするのなら大得意。
ン十年生きてきて、無意味なことしかしていない。